6月23日(水):共産主義
今朝のテレビで面白いことやってたな。ネコ型のリュックをネットで購入したらバッタもんが届いたというものだ。こういうのはよく耳にする話でもある。それを発案し、発明した人に無断で偽物が作られているのだ。でも、販売サイトには本物の写真が掲載されて、注文すると偽物が届くというわけだ。製造しているのはやっぱり中国だ。
中国はなんでもパクる。日本人からすればそれは良くないことなのだけれど、彼らからすればそれは当然のことである。当然の権利だということになる。まあ、せめてパクるならそれなりのクオリティを持たせろとも言いたくなるのだけれど、それは置いておいて、そこには共産主義の悪い一面が現れているように思う。
共産主義の思想は、それ自体は悪いものとは僕は思わない。賛同したくなる部分もある。日本でも、戦前において、プロレタリア文学として共産主義運動が盛んであった。その作品を読むと、戦前の日本人重労働者が訴えるのは、賃金の格差である。どうも仕事が厳しいことはある程度までは許容できるようであり、日本全体が栄えることに対しても反対していないように僕は感じている。労働に対して、それに見合った正当な賃金が支払われること、それが彼らの一番の主張であったように僕は思う。
共産主義はこの格差をなくそうとする。一部の富者だけが栄えて、多くの貧者が生活にあえいでいるという、この状況を改善しようという思想がある。持てる者は持たない者に分け与えなければならない。僕はこの思想もある程度までは賛成である。しかし、限度もある。映画『ドクトルジバゴ』で、軍務から帰宅したジバゴの家が多くの人の共有財産となっていたというシーンがあるが、あれは限度を超えていると僕は思うのである。
大切なことは、貧者が富むことであり、貧者の生活や人生が豊かになることが重要なのであり、格差そのものは問題ではないと僕は考える。貧者の生活水準が上がること、底上げすることが重要なのであって、貧富の差をなくすということは二の次である。
金銭や所有物の話であれば、分け与えてもよい。ただし富者の意志も尊重しなければならない。強制が過剰になることも望ましくないことだと思う。
しかし、一方で、知的財産などはそれなりに保護されなければならない。著作権は守られなければならないと思う。悪い共産主義の場合、著作権ですら個人が独占しているのはおかしいということになるだろうと思う。それらは共有されなければならないという思想になるだろう。中国のやってることはまさにそれだと僕は思っている。
ジャッキー・チェンはしたたかである。彼はあるインタビューで言っていたのだけれど、中国はすぐにパクるので、何か新しいアクションを開発してヒットさせても、それが真似されるのだそうだ。確かに、ブルース・リーがヒットしていた頃はブルース・リーもどきがたくさん現われた。ああいうことを言っているのだろう。だから、ジャッキーは新しいアクションを毎回編み出しているということだ。これはそう簡単なことではない。新しいアクションということは前例がないというわけなので、どこにどんな危険が潜んでいるか分からないわけだ。だから毎回大けがをされるわけだ。
ジャッキーがしたたかだというのは、それをNG集として映画のラストで流すのだ。日本人はあれを単なるNG集として見るだろうと思う。でも、僕にはある種の脅しのようにも見えてしまうのだ。つまり、これをパクったらこんな大けがしまっせと暗に仄めかしているように見えるのだ。
ここにもう一つ悪い共産主義の傾向が見られる。人を豊かにするために発明するのではなく、他にパクられないために発明し続けなければならないという傾向である。発明する側とパクる側とのいたちごっこが延々と続いてしまうことになりそうだ。
さて、なんの話をしているのやら分からなくなってきた。要するに、どんな主義や思想も悪しき一面があるもので、その悪しき一面を改善していくための努力が主義や思想の実現に欠かせないと僕は思うわけだ。どの人も平等に持つことは賛成できても、どの人も均等でなければならないとなると、それは行き過ぎである。もし、ヒット商品をパクるのであれば(これは本当は善くない)、本家を超えるようなものを作ってみればいいのである。それならどこからも文句は出ないだろう。しかし、本家よりもはるかに低いクオリティのバッタもんを騙し売りすることは、それ自体が詐欺に該当するというだけでなく、主義や思想の堕落以外のなにものでもないのだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)