5月31日(月):コロナ禍を生きる~今月のa la carte
今月もコロナ関連のことはいろいろ言いたいこと、書き残しておきたいことがあった。いくつか、僕のメモから拾って残しておこう。
(さざ波)
ある人が日本のコロナ状況を見て「さざ波」だと評し、それが問題になっているらしい。この人のことを僕は知らないので何とも言えない。どういう意味でそれを言ったのかも分からないので、どうにも考えようがない。
ただ、僕もそう感じてはいる。「さざ波」程度のものである。しかし、「さざ波」でさえこれだけ困窮するのだから、本波が来たらどうなるのかと、考えただけで恐ろしい。僕はさらに厳しい状況がこの先訪れると確信している。もっと恐ろしい変異株が生まれるのではないかと危惧している。
(腐った五輪)
開催が近づいているために五輪関係の話題も多かった。僕は五輪はすでに腐ったイベントだと信じている。先日述べたような同質化の理論でいくと、腐った大会に関与する人間も腐った人間になるということになる。選手たちもそうだ。
僕個人としてはアスリートの方々には五輪を棄権してほしいと願っている。しかし、そうもいかないのだろう。腐った大会に参加しても、腐った人間にならないために、五輪後のその人が問われるようになっていくと思う。
願わくば、今回の五輪出場が選手の心のわだかまりとして残り続けてほしい。本当に参加して良かったのかどうか、一生かけて取り組んでほしいとさえ願っている。僕は五輪嫌いである。でも、出場する選手たちを恨むつもりはない。彼らもある意味では「被害者」「犠牲者」なのだと僕は思うようにしている。
(自粛疲れ)
東京のことであるが、この土日は人の流れが多かったようだ。おそらく東京だけではないだろう。ワイドショーで観たのは、若者たちがコンビニ前でたむろして飲酒している映像だった。店が開いていないのでコンビニ呑みすることが僕もあるだけに、「痛い」映像でもあった。もっとも、僕の場合は独りだし、座り込んだりすることもないのだけれど。こうして少しでも差別化を図ろうとするところは僕が小心者であることを示すうえに、器の小さい人間だとアピールしているに過ぎないのだが、まあ、それは脇へ置いておこう。
ああいう映像が流れると、決まったように、若者の「自粛疲れ」なる言葉が耳に入る。でも、僕の受けている印象では、若者は「自粛疲れ」しているようには見えないのだ。彼らは彼らで自粛の必要性を認め、それをしようと心がけていることもある。
疲労ではないのだ。むしろ意味喪失なのだ、と僕は思っている。この自粛になんら意味が見いだせないのだ。それをやること、継続することの意味が失われているのだ。軽率な行動をすれば感染拡大につながるということは、恐らく、頭では理解できているだろうと思う。しかし、そこまでして感染拡大を抑えるということの意味が不明瞭になっているのだと思う。個人がいくら努力して感染抑制に努力しようと、いくら忠実に自粛生活を守ろうと、その努力が東京五輪に吸い取られてしまうのであれば、あまりにも空しいものではないかと思えてくる。
もともと不完全な対策しか立てていないのだから、不完全な効果しかもたらさないのは自明のことである。宣言は延長、再延長、再々延長と、いくらでも伸ばされてしまう。ゴールは見えないのだ。少しばかり極論を言わせてもらえば、宣言のゴールは個々人の努力によってではなく、政府の判断次第なのである。政府の判断が五輪開催に基づいているのであれば、感染状況で判断されるよりも、五輪開催で判断されることになるのは明らかである。政府はそれは否定しているようであるが、その否定は怪しい。つまり、本当に五輪とは無関係に宣言をしているのであれば、五輪と関連づけられたことに驚愕するはずである。思いもしなかった世論の登場にもっと動揺してもおかしくないのではないかという気さえする。
もはや宣言も自粛も無意味である。
(ワクチン接種)
政府が頼みの綱としてきたのがワクチンである。本当はワクチンだけに頼ってはいけなくて、水際対策、検査拡充、病床確保、個々人の感染予防並びに地域での対策など、トータルで取り組まなければならないことである。ワクチンはあくまでも一部に過ぎない。
この一部分を全体化して考えているところにこの政府の恐ろしいところがある。これさえあればどうにかなるという思考はけっこう怖いものである。そこにはいかなる代替案も生まれることがなくなるし、柔軟性も失われていくだろうと思う。
日本のワクチン接種率は、途上国どこころか、貧困国なみだ。今後どう変わるかは未定だけれど、惨憺たるありさまだ。
(日本の脆弱さ)
文化人類学の鈴木七美先生(僕は面識も何もないくせに、勝手に引用させてもらうのだけれど)は、2003年頃、研究のためにカナダに滞在されていた。当時、カナダではSARSが流行していて、「隔離」なんて言葉が日常にあふれていたそうである。鈴木先生は書いておられる、「伝染病に素早く対処できないことは国家社会の弱さの指標としてとらえられ」、トロントでの対処の遅さが批判されたとのことである(『文化人類学』放送大学教材 第5章)。
同じことは今の日本にも言えそうだ。コロナでの対応の遅さ、稚拙さは、日本がいかに弱い国であるかを全世界に伝えているようなものである。もし、日本を侵略してやろうなんて国があるとしたら、彼らに絶好の情報を与えているようなものである。
コロナ禍で露呈したことは、日本の脆弱さである。
(禁酒令に見る私権制限)
昨夜、飲み友達からメールをいただいた。長いこと会っていない人だ。最後に一緒に飲んだのはいつだったろうか。去年の秋ごろが最後だったのじゃないかな。今はお店が開いていないのもあるけれど、僕はこの人に感染させてはいけないとの思いから、僕の方から誘うことも控えていた。友達の方も、不便を強いられているけれど、変わりがないということなので、僕としてはひと安心だ。
静かに酒を飲む人だっているのに、飲食店で酒類の販売禁止なんて酷すぎるなどと思ってしまう。
まあ、酒飲みのことはさておくとしても、客がお酒を注文するとしよう。それはお店が販売している商品である。当然、客は提供される商品に対して料金を支払う意志がある。それでも客は商品を買うことができないのだ。禁止されているという理由だけで。一方、お店の方では、売る商品があるのに売ることができず、客が求めているのに提供できないという事態になる。客のニーズに応えることが禁止されているのである。なんのための商売かと思ってしまう。
これを私権制限と言わずにおれようか。水際対策での隔離にしても、自粛にしても、政府はすぐに私権制限ということを持ち出すけれど、何をいまさらという感じがしないでもない。実は恐ろしいまでに私権制限を課しているのである。ただ、人々はそこになかなか気づかないだけなのかもしれない。
コロナ感染拡大防止のために私権を制限しますと、ハッキリ言えばいいのだ。制限していながら自分たちは制限していませんという態度を取るので欺瞞になるのだ。
(専門家)
もう一つ、政府の専門家を僕は信用しない。首相は先日、傷の入ったレコード盤みたいに(この喩え分かってもらえるだろうか)、「専門家の意見を聞いて決めます」を繰り返していたが、何を言うかと僕は思った。まず、どの部分、どの事柄に関して専門家の意見を伺うのかも明確ではないし、専門家がこういう意見であればこのようにしようと考えているといった指針もない。まあ、それは置いておこう。
確かに根拠も証拠もないことであるが、専門家の意見を聞いて方針が定められるのではなく、先に方針が決まっていて、その方針に適合するような意見を専門家に言わせていると、僕は疑っている。その方針に適合する資料を探させたり、意見を作らせたりしているのではないかと思っている。もし、そうであれば、政府の専門家たちも不幸な人たちである。
政府はデータの捏造・改竄ということをやってきた。そういう政府なのだ。赤木さんのファイルなんかもそうだ。コロナ対策の専門家にも同じことをやっていないと断言できようか。
だから、僕は、尾身先生の発言よりも、北村先生の言うことを信じる。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)