5月26日(水):すべてがイヤに
具合の悪い日々が続いている。いろんなことが重なってくる。いろんなことが束になって僕に覆いかぶさってくるかのようだ。喩えて言えばそんな感じがしている。
外的な事柄が重なることもあれば、僕自身がやろうと決めてやっていることが重なることもある。最近はとかくしんどい。コロナによる倦怠感をいつも疑っている。
今日は、目が開けてられないくらい辛い。とくに左目だ。左目の瞼が痙攣を起こす。頻繁にそれが起き、終日それに悩まされる。
自分の身体にも、自分の状況も、今の社会の状況も、何から何まで嫌気がさしてくる。この先待ち構えているのは負担ばかりという気がしてならなくなってくる。
今の僕自身にはなんの希望もない。
すべてがイヤに感じられているけれど、それから逃れるわけにはいかない。直面もし、取り組んでいかなければならない。死にたくても死ぬわけにはいかず、生き抜かなければならない。「死にたい」なんて軽々しく言える人間が羨ましい。
先週来られたクライアントさんが、あるスピリチュアル系のカウンセラーのことを話したけど、なぜかそれが僕の頭にこびりついている。ある意味、そういうカウンセラーはラクだなと思った。誰が悪いということを指摘すればいいのだから。それで僕よりも倍以上の料金を取っているのだから、こっちとしてはやりきれない思いもしてくる。悪者を設定するのは、人が自分と関わらないために採択する典型的な方策である。クライアントに彼自身と関わらることや向き合うことを回避させようと思えば、悪者を準備することである。誰それが悪い、その人物のせいで今のあなたが悪くなっているのだという理屈を捏ねればいいのだ。カウンセラーもそれをすることでクライアントその人と関わったり向き合ったりすることが回避できるのだ。回避できると何がいいのかと言うと、ラクになるというだけのことである。だから、アイツ(そのスピリチュアルカウンセラーのこと)はラクして金儲けしやがってなんて思いも湧いてくるのだ。
誰かが悪い、親が悪い、生い立ちが悪い、家の方角が悪い、そんなことで片付けることができれば人生は簡単だろうな。そんなのがもてはやされる時代にも僕は嫌気がさしている。本当に重要なことは、誰が良くて誰が悪いなどといった二元論からいかに抜け出るかということなのに。
こうして書いているのも空しくなってくる。早く今日という一日が終わってくれることだけを今は祈っている。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)