5月20日:二種の時間

5月20日(木):二種の時間

 

 今日のクライアントさんが面白いことを言っていたな。僕にはそういう発想がないものだから興味深く拝聴した。この人は娘さんのことで苦労しているのだけれど、この娘さんが言った言葉である。娘さんは次のような話をしたそうだ。

 職人さんの世界では一人前になるまでの期間が10年かかるとかの話がある。つまり見習い期間がそれだけあるということだ。それだけの下積みをして一人前になっていくというのが職人さんの世界であるということだ。でも、それだけの時間をかけるのは無駄である、とこの娘さんは言うわけだ。

 今はネットが発達しているので、技術を覚えるのも検索すればすぐに可能である。師匠の技術を盗んでとかやっているのは非常に要領が悪いと娘さんは言う。ネットやユーチューブなんかを活用すれば10年も見習いせずに済むし、3年くらいでそれと同じことが達成できるというのがその娘さんの考えであるそうだ。

 ところで、僕はそういう見解に異論を唱えるつもりはない。それは個人の考え方だと思うからだ。問題はその発想がどこから出てくるものであるかということなのだ。

 職人さんが10年も師匠について修行したということを、僕は高く評価する。それは決して2,3年で終わるような過程ではないだろう。それに、師匠がいるということは、その10年間は師匠に守られて仕事をしていることになるから、弟子たちも心強いことだろうと思う。2年くらいで独り立ちするよりも、10年の間に内面化されているものははるかに多いことだろうと思う。

 こういう話を始めると長々と綴ってしまう悪いクセが僕にはあるので、簡潔に済まそう。要するに、時間には量的な時間と質的な時間とを分けることができるのであるが、この娘さんは質的時間のことをまったく考慮していないのである。あくまで量的時間だけで比較しているということが言えそうである。

 では、なぜ質的時間の方は等閑に付されるのかということだけれど、それはこの娘さんが真剣に生きていないからである。時間はただ流れすぎるものという人生を送っているからであると僕は思う。もちろん、こんなふうに割り切って言ってしまうのは娘さんに対して失礼なことであるが、まあ、この娘さんは僕のブログなど読むことはないだろうから、そこは良しとしておこうか。

 質的時間とは、意味のある時間ということである。時間は同じように流れ去る。充実した時間を過ごそうと、無為な時間を過ごそうと、そこは変わらない。量的時間に関しては両者には違いはないのだ。でも、質的には両者は異なる。言い換えれば、前者は意味のある時間を過ごし、後者は意味のない時間を過ごしていると言ってもいいだろう。娘さんの見解には前者の視点が欠けていると僕は感じているのだけれど、それはこの娘さんにそのような経験が欠けているからそのことが理解できないのではないかと思う次第である。

 もう一つ、単に技術だけを習得するのであればユーチューブ先生でもけっこうだろう。僕もある曲のギターの弾き方をユーチューブで調べたことがある。なるほど、ああやって弾くのかと納得はしたものの、教えているギターの先生からは何も学びはしなかった。そこに技術はあるけれど、人はいないのだ。

 師匠に10年付き従うという時、弟子たちはその師匠を尊敬し、長い年月を共に過ごすことで技術以上のものを学ぶと僕は思っている。師匠の姿勢であるとか、生き方であるとか、技術以外のものも身に着けていくことだろうと思う。生きていく上ではそういうものも必要である。そんなものは必要ではないと考える人は、人生を技術だけでごまかして生きるような人だと、僕はそう見做している。

 技術は人間が生み出しているものである。だから人間は技術以上の存在である。両者を同等に考える人は人間を技術と同一視しているだけのことである。そのような同一視が起きるのは、その人が人間の中で生きていないからではないだろうか。人間はただの道具であるという世界に生きているからではないだろうか。僕はこの娘さんが非常に非人間的だという印象を受けてしまう。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

関連記事

PAGE TOP