4月23日:政治家が愚者なら国民は賢者であれ

4月23日(金):政治家が愚者なら国民は賢者であれ

 コロナの感染者数が大阪では増加していて、一日1000人を連日越している。医療はすでに悲鳴を上げている。搬送先の病院が見つからず、何時間も待たされるといった事態も生まれている。その状況を受けて、大阪では来週から非常事態宣言が下されることになった。ただ、この宣言は、現状の「まん防」に少し毛が生えた程度のものなので、これがどれほど有効であるか僕は疑問だ。

 政府や行政は国民の行動変容ということを求めるのだけれど、個人の行動変容とは相当難しいことである。カウンセラーや精神科医がそのためにどれほどの苦労をしなければならないか、当然と言えば当然なのだけれど、彼らは知らないのである。

 行動変容のためには動機付けが必要である。そのためには目標も必要となる。この目標は数値で表したものでは不十分である。行動レベルの目標が設定されなければならないと僕は思う。

 イギリスはそれをしている。おそらく中国もそうだった。最初に強力な対策を国民に求めるのである。厳しいロックダウンを課すわけだ。そして、数値がここまでくればこれこれのことをしていいですよ、さらにその数値が一週間キープできればさらにこういうことをすることが許可されますよと、緩和に行動レベルの内容が含まれているわけだ。

 確かに最初は不便な生活をすることになる。それで反発も生まれる。ただ、耐えて行けば徐々に自由が戻ってくると思えれば、それは一つの希望にもなりえるし、動機付けにもつながる。緩和されたらあれをしようとかこれをしたいとかった気持ちも生まれるだろう。それもまた現状を耐えることを意味づけることになる。

 目標が数字だけでは、なかなか希望も生まれないのではないかと思う。

 ワクチンがあんな調子なので、僕たちは一人一人が感染対策を徹底しないといけない。それでも感染者が出てしまうのは、ウイルスのせいである。

 今の部分が重要だ。感染が拡大するのは国民のせいではないのだ。そういうふうに受け取られるような報道がなされることに僕は危惧する。感染が拡大するのはウイルスのせいなのであって、それを国民のせいにしてはいけないし、そのようなニュアンスを含んだ表現は控えなければならない。

 確かに危なっかしい奴もおる。もうちょっと小さい声で会話してほしいとか、ここではきちんとマスクをかけてとか、他の人のことに干渉したくない僕でもそう思うことがある。しかしである。そういう人に必要なのは啓蒙であって、罰則ではない。ましてや誹謗中傷の類でもないのだ。

 例えば感染率が高いと言うとしよう。それだけでは何がどうなのか分からない。そこで一つシミュレーションしよう。

 従来型が2人に感染させるとしよう。1人が2人に感染させてしまうほどの感染力ということだ。

 この場合、一日目に1人が感染する。二日目はその1人が2人に感染させる。三日目はその2人がさらに2人ずつ感染させて4人が感染する(その前日の1人は計算が煩雑になるので省こう)。四日目はその4人が2人ずつに感染させるので8人になる(以下、その前日までの感染者を省く)。五日目にはその8人が二人ずつ感染させて16人になる。六日目にはその16人が感染させて32人になり、七日目には64人になる。

 新規型は従来型の2倍の感染力があるとしよう。1人が4人に感染させてしまうとしよう。

 一日目に1人が感染するのは同じである。二日目にはこの1人が4人に感染させてしまう。三日目にはこの4人がそれぞれ4人に感染させるので16人になる。四日目にはこの16人が4人に感染させ64人になる。以下、同様に1人が4人に感染させてしまうと、五日目には64人が256人に、六日目には256人が1024人に、七日目には1024人が4096人に感染させてしまうということになる。

 一週間で64人だったのが、感染率が倍になることで、一週間に4096人に跳ねあがってしまうわけだ。つまり、感染力が2倍になるということを感染者数が2倍になるというふうに考えてはいけないということである。感染力が2倍になるとは、感染者数が2乗になると考えていなければならないのだ。感染力が強くなったということを軽く考えてはいけないわけである。

 イギリス株、変異型は感染力が従来型よりも強いと言われている。感染者の急増はそのためである。従来型よりも感染力が強いために、国民一人一人が従来型に対して以上の予防に努めなければならないというのは分かる。しかし、その急増の責任を国民に、ましてや個人に還元させてはいけないのである。悪いのはこのウイルスである。

 すでに述べたように、感染対策を疎かにしてしまった人たちや油断してしまった人たちを攻撃してはいけないのだ。彼らに必要なことは啓蒙である。お互いを攻撃しあうようなことをしていると収束もおぼつかなくなる。政府が役立たずなのは政府の問題であるとしても、国民が同じように無能な行動をしてしまってはいけない。政府が愚かでも、せめて国民だけは賢者でありたいところである。

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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