12年目コラム(58):臨床心理の日米欧(4)~短期療法
前回予告したように、今回は短期療法について述べようと思う。
僕にはブランクがある。カウンセリングに失望していた時期があった。この時、背中を押してくれたのが短期療法の考え方だった。僕がつまずいた部分に関して、重要な示唆がいくつも見出されたのだ。これによって、僕はもう一度カウンセリングの世界に向かっていこうという気持ちになったのだ。このエピソードはいずれ話そうと思う。
でも、今では、短期療法の考え方は、別の意味で僕の背中を押している。僕はそこに政治的な要請さえ読み取ってしまうのだ。まあ、それはいいとしても、僕が短期療法に触れるきっかけになったことから話そう。
それはある講義だった。カウンセリングに関する講義だったのだけど、講師は短期療法を専門に習得された方だった。
講義の中で見た資料映像からすると、この講師はアメリカで留学していたのではないかと思う。
さて、短期療法であるが、精神分析における短期とは半年とか一年くらいである。僕もその期間を目安に仕事をしようとしている。
でも、短期療法の言う短期はもっと短いもので、1回から数回というレベルである。それで効果があるならとても素晴らしい方法であるように見えるだろう。でも、ここにはいくつかの陥穽がある。
短期療法のケースには、数年かかっているケースもあるのだ。講師によれば、現実の期間ではなく、短期療法の方法に基づいているのであれば、それは短期療法ということになるのだそうだ。
僕はそこは理解できるのだけど、ちょっと一般の人の誤解を招くところではないだろうか。
また、短期療法家はクライアントと一回から数回の面接しか組まないのだけど、けっこう、後々までそのクライアントをフォローしていたりする。それは、結局のところ、治療関係が継続しているということにならないだろうか。僕はそこも誤解を招くように思うのだ。
クライアントが面接室に足を運ぶのが数回ということであって、関係はその後も引き続き残り、「治療的」かかわりが持たれることになるのだとすれば、始めからその部分も「治療」の枠内の期間としてクライアントに提示しておく方がよほど良心的ではないかと僕は思った。
さて、この講義で一番印象的だった場面を述べようと思う。
実際の面接ビデオを僕たちは見た。短期療法家と現実のクライアントとのやりとりを映像で見たわけだ。
それはDVだったか児童虐待だったか、とにかく家族内で暴力を振るうクライアントだった。裁判所の要請で、その人は訪問カウンセラーのカウンセリングを受けることが義務付けられていた。そのクライアントとの一回分の面接が流れる。
観終わった後、ある聴講生が、「それでこの人の暴力は治まるのでしょうか」と講師に質問した。
講師は、さも平然として「治まらないでしょうね。またやるでしょうね」と答えた。
質問した聴講生は「それでいいんですか」というようなことを尋ねた。
すると、講師の先生はすごく驚いたふうをして、「いいんですかって? いいんです」と答えたのだ。
僕はこの瞬間「あっ!」と思った。この先生はアメリカで学んできて、アメリカ式の合理主義にすっかり染まってしまっているんだと直感した。
分かりやすく言うと、「治療」の成功と患者の「治癒」とが別次元で考えられているということである。この先生ははっきりとこの観念を持っているのだ。質問した聴講生にはこの観念がないのである。だから先生が驚いたのだと思う。
この先生が有しているような観念は、僕の見解では、アメリカ型の価値観なのだ。患者は治らなかった、でも治療は成功した、だからそれは成功事例なのだ。治療を受けたのに治らなかった、どうしてくれるんだと言われても、「治療は成功しました、それが何か?」と言えるわけだ。
日本は、どちらかと言うと、この二つの次元を混同する。患者が治らなかったら治療は失敗だと見做す傾向が強いように僕は思う。アメリカはここをはっきりと分ける。これもまた合理主義のなせる業だと僕は思う。
従って、「アメリカで驚異的な成功例を持つ治療法」などという仰々しい宣伝文句があれば、僕たちはそれを鵜呑みにする前に、やはり前回と同様の質問をしなければならない。つまり、この「成功例」の「成功」は、誰にとっての「成功」なのかが問われる必要があると僕は思う。
僕の考えでは、この文章の「成功」は臨床家側にとっての「成功」を指しているに過ぎないということである。「患者が治ったか治らなかったか、そんなことはどうでもいい、ただ、我々の方法は成功した」とそう言える数を指しているに過ぎない。
僕の個人的な偏見であるが、あまりアメリカで成功率の高い「治療」方法というのは、少し用心するくらいがちょうどいいと思う。それは、その「治療」を受けた患者さんの「治癒」率を反映していないかもしれないからである。
日本はまだそこまで合理主義が徹底していないかもしれないけど、やがてはアメリカのような状況になっていくのではないかと思う。
臨床心理学も精神医学も、もう一度100年前に戻る必要があるのではないかと思う。手探りで人間を理解しようとしていたあの時代にもう一度戻らなければならないのではないかと僕は考えている。
例えば、フロイトという人がいる。神経症者の理解不能な言動を目の当たりにしても、フロイトは相手がおかしいとは考えなかったと僕は思う。患者が意味不明なことをしていても、患者の中にはそれをする正当性があり、患者の中では辻褄が合っているのだ。ただ、そこにブラックボックスがあるだけなのだというフロイトの信念を僕は感じる。このブラックボックスをフロイトは無意識としたわけであるが、それがどんな理論であれ、患者は彼の中では正しいことをしているという前提から取り組んだことに変わりはないと僕は思う。同じことは、ユングであれ、ヤスパースであれ、ビンスワンガーであれ、言えることだと僕は考えている。
さて、この「臨床心理の日米欧」シリーズについて少しだけ述べておこう。実は、これは半年くらい公開を見送っていたシリーズである。僕の思う所のものを綴っただけなのだけど、僕自身、歴史認識や知識が不足していると感じているし、過去を理想化しすぎている自分も感じられている。
だから、僕の偏見や間違いを多分に含んでいると思う。僕自身、その点は認めているので、お読みになられる方にはどうか一個人の印象として読んでいただくことを僕は希望している。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)