12年目コラム(52):作業所の思い出(1)

 あまり人に話したことはないが、大学時代に少しだけ精神障害者たちの作業所でボランティアをしたことがある。
 ことのいきさつは以下の通り。当時、僕の行きつけだったバーがある。そこで飲んでいた時、たまたま隣に座った女性がその作業所の所長さんだったのだ。彼女とお話をしていて、ちょっとばかり仲良くなりたいというスケベ心を起こしたのがそもそも悪いのであるが、彼女が「よかったら作業所を手伝ってみない」というお誘いに、僕はホイホイと応じてしまったのだ。
 それは大山崎にあった。大学の授業のない水曜日に僕はボランティアすることになった。
 規模の小さい作業所で、障害者の方々(作業所員と言うべきか)は全員で6名ほどだった。所長はバーで知り合った彼女で、他に社員(と言っていいのか)の女性が一人いるだけだった。その他はすべてボランティアでやっていた。
 まあ、僕なんかはとても不真面目なボランティアで、経験もないし、分からないことだらけで、何かと足を引っ張ってきたのではないかと思う。多分、迷惑もかけたことだろう。
 その他のボランティアというのは、福祉関係の学校からやってくる学生さんたちだった。カリキュラムの一環で、そういう作業所などのボランティア参加が義務付けられていたようだ。
 毎回、そういうボランティアの学生さんが来ていた。福祉関係の学校というと、やはり女性が多いので、学生さんたちはみな若い女性だった。所長さんとお友達になれないなら、せめてこの学生さんたちと仲良しこよしになっておこうと、またまたスケベ心を起こした僕は、ほとんどボランティアの女子学生さん目当てで行ってたようなものだった。

 まあ、それはともかくとして、世間では時々、障害者施設で職員が障害者に暴力を振るったなんて事件が起きる。障害者をいじめるなんて、なんてひどい人たちだと思う人もあるだろう。僕は暴力を振るったりはしないけど、その気持ちが分からないこともないような気がする。週に一回の僕でもそういう気持ちに襲われたことがあるのだから、毎日接している職員さんたちは本当にたいへんだろうと思う。
 障害者の人たちも、やはり人それぞれなのだ。障害があるがために人と仲良くやっていこうとする障害者もあれば、障害があるがために人を恨まずにはいられない障害者もあるわけである。障害があっても一人の人間として育ててもらった人もあれば、特別扱いされ続けてきた人もある。
 こういう言い方は不謹慎かもしれないけど、要するに、障害の程度に関係なく、手に負えない障害者がいるということである。職員たちはその人に一際手を焼くことになる。
 僕は今でも覚えているけど、一人の所員さんと所長である彼女との間でバトルが勃発しそうになったことがあった。発端は、その所員が昼食のおかずを食べようとしなかったことにある。所長は何とか食べさせようとするのだけど、所員さんが頑固に拒み続けた。二人の間に緊張感がみなぎる。僕も見ていてハラハラする。「食べなさい」―「嫌だ」の応酬が続いて、最後は所長さんが半ば力づくで食べさせた。所員さんはおかずを口に入れる。その瞬間、僕も「よし、食べた、食べれた」と言ったけど、この緊張感から早く解放されたい気持ちの方が強かった。所員さんは、おかずを口に入れて、少し咀嚼すると、口の中のものをゲーと吐き出す。僕は嫌悪感を覚える。所長さんは、そんな所員さんを激しく叱る。こんな場面が日常的に展開するのである。たいへんな職場だと僕は思う。

 当時、一応僕は大学生だった。世の中の右も左もよくわかってない人間だった。それを言ったら、他のボランティアさんたちも同じなんだけど、彼女たちは学校で専門的に学んでいる人たちだ。僕から見ると、彼女たちの方がよっぽどしっかりしていて頼もしいように思えた。僕なんかはてんでダメである。
 こんな僕だけど、男手があるということで、所長さんはそれなりに評価してくれたことも僕は覚えている。
 作業所でバザーを開くことになった。売り上げは今後の作業所の運営費となる。近所を回って、不用品でバザーに出品できそうなものを譲り受けるのだ。そういう時、所長さんは僕を連れていく。荷物を運んだりしなければいけないからだ。
 でも、皆さん偉いなと僕は思った。近所の家々を回って、作業所の人間ですけど、バザーに出品しますので、不用品を回収させてくださいとお願いすると、気持ちよく提供してくださるのである。使わなくなった器具とか、貰い物の食器とか、土産物の置物とか、いろんな品が集まる。
 そうして回収して、バザー会場まで運び、陳列するのだ。普段は役立たずだけど、こういう時だけ男手が重宝されるわけだ。

 その後、僕は大学を中退するのだけど、それからクリニックにて働き始める。作業所には自然と行かなくなった。
 クリニック時代一年目に、所長さんからいきなり電話がかかってきた。どうしても人が足りないから来てくれないかと頼まれた。作業所で一泊旅行するのだけど、どうしても人手が足りないのだと言う。旅費もすべてもってくれるというので、僕はクリニックを一日休んで、所長さんの要請に応じることにした。
 行先は、愛知県になるのかな、明治村とかを回った。所員さんたちはいつものメンバーで、僕のことを覚えていてくれた。所長さんと社員の女性、それにもう一人男性がいた。それに僕の四人だった。
 この男性は面白い人だった。精神障害者の作業所のボランティアに来るようなタイプの人ではなかった。見た目は建築現場で働いていそうな感じだ。でも、どうやら彼のお目当ては社員さんの女性であったようだ。僕は所長さんの方が好きだったけど、彼はもう一人の女性の方が好きだったみたいだ。
 なかなか楽しい夕食だった。お酒も出て、和気あいあいと和んだ。歌を歌う所員さんもいたし、後で述べるH君は親戚の結婚式のあいさつのリハーサルをやったりして、なかなか賑やかだった。
 楽しいひと時を過ごして、僕たちは所員さんたちを寝かしつけた。僕も寝ようかと思うと、彼がやってきて、「寺戸君、もう少し飲めるだろう」と囁く。僕はもちろん付き合いますよと返事する。
 こうして作業所の所員さんたちを寝かして、ボランティアの僕たちはお酒を買いに旅館を出た。いや、旅館の中で買ったのかな。ちょっと記憶が曖昧だ。外に出たような記憶があるのだけど。
 どちらにしろ、僕と彼とでお酒を買いに行った。どこで飲むということになって、結局、所長さんたちの部屋に行こうということになった。所長さんも社員さんも起きていて、結局、四人で呑み直しをやった。

 いい思い出だ。楽しい日々だった。その後、風の便りで所長さんのK先生は作業所を辞めたということも聞いた。
 K先生、今頃、どうしているだろうか。九州出身だったと思うのだけど、地元に戻ったのだろうか。僕から見ると、とてもしっかりした女性だから、どこに行ってもバリバリ仕事をするだろうと思うし、結婚してしっかり家庭を守っているかもしれない。
 あの時、たまたまバーで一緒になったのが縁で、僕も貴重な体験をさせてもらったし、いい思い出もたくさんいただいた。今もK先生の幸せを願う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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