12年目コラム(48):出会った人たち~男はナンバーワン、女はオンリーワン?

 ある女性の話だ。彼女は心理学の勉強を始めたばかりで、いろいろ「心理読み物」系の本を読んでいるそうだ。それはそれで結構なことである。
 その彼女が、「男はナンバーワンを求め、女はオンリーワンを目指す」と僕に教えてくれた。もちろん、「それは間違いだ」などと本音を漏らすような野暮な真似を僕はしない。あわよくば彼女とお友達になれるかもしれないのに、そんなことは言わない。そう、「へえ、そうなんだ、知らなかった、君はよく知っているね」とおべんちゃらを述べておいた。う~む、それにしても、結局、彼女とお友達にもなれなかったのだから、あの時、本音を語っておいてもよかったかもしれない。

 そういう本が出ているというのは知っていた。でも、ナンバーワンとかオンリーワンって、どういうことなのだろう。僕には同じことのように思われるのだけど、僕の感覚がおかしいのだろうか。
 企業を例にしてみよう。ナンバーワンの企業は、同業社とは何か違うことをしているものだ。オンリーワンの企業は、同業社よりも群を抜いていたりする。ナンバーワンになるには、オンリーワンの何かをしなければならず、オンリーワンの何かをしているところはナンバーワンになっていたりするのだ。そう思うと、これは同じ事柄を言っているようにしか僕には思えないのである。
 従って、男はナンバーワンを求め、女はオンリーワンを求めるという命題は、男と女の相違を述べているのか、類似を述べているのかがはっきりしなくなる。その本の著者はどちらの見解でこれを説いているのだろうか。

 ここではその本について批評するつもりはない。それだけは明示しておく。ただ、彼女の姿勢を取り上げたいと思うのだ。彼女の姿勢は、一般の人の心理学の利用を表しているように思える。いや、ここでも誤解のないように申し上げておくが、彼女も心理学初学者であって、彼女が間違っているといった指摘をするつもりはないのである。
 しばしば、その命題が何を表しているのかが度外視されて、その命題だけが独り歩きしているような場合もある。心理学を勉強するためには、もう少し思慮深くなる必要がある。

 同じような命題で、「男は話を聞けない、女は地図が読めない」というものもある。これもそのものずばりのタイトルで本が出版されていた。
 僕は男だけど、方向音痴で、地図が読めない。一人で登山とかして、これまでよく遭難しなかったなと自分でも驚きである。そのくせ、話を聞くという仕事をしているのだから、上記の命題は僕にはしっくりこないものがある。
 要は、話を聞くということも、地図を読むということも、練習しだいで上達するものである。男は地図を読む場面に女よりも多く遭遇するだけかもしれないし、女は人の話を聞く場面に男よりも経験が多いだけなのかもしれない。つまり、本当は訓練の差でしかないかもしれないことが、男女の違いのように言われているということが問題なのである。
 もし、これらの命題を支持している人が僕を見れば、この人からは僕がナンバーワンを目指して、人の話も聞けず、でも地図は読めるのだろうなどと思われるだろう。でも、それは、僕にとっては、この人によって、僕ではないものが僕として一方的に押し付けられるという経験になってしまうのだ。こんな傍迷惑な話はない。

 90年代中ごろ、「平気でうそをつく人たち」という本がベストセラーになった。心理学関係の本がブックランキングの上位に上がることなんて、当時はあまりなかったことなので、僕はよく覚えている。僕もその本を読んだし、今でも書架に置いてある。
 確か、あの本の著者は、本書を読むことで読者一人一人の中にある邪悪に気づくことを望んでいたように記憶している。それが著者の意図だった。ところが、この本の読書評が掲載されていたのを見たことがあるが、そこでは、「あの人がああいうことをするのがよくわかった」などという感想が目立った。そういうものである。
 つまり、心理学は自分を理解するために用いられるのではなく、他人を知るために用いられるのだ。もう少し言えば、他人に当てはめるために、あるいは、何かを押し付けるために心理学理論が適用されるのだ。これは、はっきり言って、心理学の堕落である。
 上述の彼女も同じことをしていたのだ。初学者はそういうことをしてしまうものである。恥ずかしい話だが、僕にも経験がある。心理学の理論を知って、あの人はああだとかこの人はこうだなどと人を評価していたものである。
 心理学を勉強するのであれば、その段階を抜け出なければならない。そうでなければ、その学問や知識はまったく無意味なものになってしまうからである。

 学問や理論に罪はないのである。個人の思想も同様である。最終的に重要になるのは、学習者個人である。
 愚かな学習者は、せっかく理論を学んでも、愚かな使用をするものだ。恨みを抱え、攻撃的な学習者は、理論を他者攻撃のために使用したり、復讐のために利用したりするものだ。自分勝手な人は理論を自分勝手に改ざんしてしまうだろう。そう、最後は学習者個人が問われるのである。彼がどんな人間であるかが、彼の学びを決定するのだ。
 今から振り返ると、僕は彼女に問うべきだった。「男はナンバーワン、女はオンリーワン、それで君はどうなの?」と。彼女には真に学ぶ機会となっただろう。
 心理学のいいところは自分に問うことができるという点にある。ある理論を学ぶ。僕自身ではどうだろうかと、自分の経験を内省したり、自分を被験者にして検証することが可能である。それは僕の経験や内面に秩序をもたらす。僕は一つ僕自身について学びを得たように思われる。
自分についての理解が得られる、混沌とした世界に秩序がもたらされる、こういう経験を一つするだけで、人はかなり落ち着くものである。自分に有益なことを犠牲にして、理論を他人に当てはめるだけの作業をしている人は、まったく向上がないものである。
 僕のクライアントたちの中にも、心理学を勉強した人がたくさんいる。彼らはそれを専門にやっているわけではない。ただ、自分の関心から手を染めているだけである。それはそれでいい。ただ、彼らの中に正しい学びをしている人は、僕の個人的な意見では、皆無だった。
 彼らもまた、「平気でうそをつく人たち」の読書評のように、理論を他人に当てはめるだけのことをしているのだ。僕は心理学の堕落だと言ったけど、学問全体の堕落なのかもしれない。自分を知るために学問をしたという人がどれだけいるだろうか。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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