12年目コラム(35):人間の潜在性(4)
クライアントがどれだけ望ましくないものを顕在化させていても、その人は潜在的に望ましいものを秘めているはずである。いかにして、それを顕在化していくか、それを考えることが臨床なのだと、今ではそう思うようになった。
これを突き詰めていくと、そこには「否定」と「批判」に行きあたる。
しばしば、無知な人から僕は批判されるのだけど、僕はクライアントを「否定」しており、「否定」から始めるのだと言う。しかし、その通りである。この人たちは「否定」ということを一面的に考えているか、「暴力」と混同しているかのどちらかだという気がする。
例えば、僕の目の前に一人のクライアントがいて、その人が「私は怠け者なんです」と訴えたとする。おそらく、カウンセリングの公式的な応答としては、「あなたは自分が怠け者だと思うのですね」などと言うのだろう。これは否定しているわけではないが、肯定しているわけでもない。受容しているようで、本当は受容していないのかもしれない。
僕は、相手によって変わるのだけれど、「私は怠け者なんです」と言われたら、「誰がそんなことを言っているの?」とか「僕はそうは思わない」と言うだろう。場合によっては、「あなたはそれを信じていないのではないですか」と問い返すかもしれない。いずれにしろ、これは一つの「否定」であることは否めない。
この人が僕のこのサイトを見て、僕のカウンセリングを受けてみようと思われたのであれば、この人は少なくとも「怠け者」ではないはずである。この分かりにくい、ごちゃごちゃしたサイトを読むというのは、「怠け者」ではできないことだと僕自身が思うからである。
また、人が自分のことを「悪く」言う時、それは他者の「意見」であることが少なくないのである。ある人がこの人を「怠け者」だと言い、この人はその「意見」を自分のものにしてしまっている可能性が高いということである。
従って、「私は怠け者なんです」という訴えに対して、うっかり「そう、あなたは怠け者なのね」などと言おうものなら、憤慨される人がおられるのも当然なのである。むしろ、ここで「否定」されることで安堵される方の方が、私の経験の範囲では、多いように思う。この「否定」により、この人が傷つくかどうかは、しっかり見極めないといけないのだが、それはまた別の話である。
難しいのは、最初は「そう、あなたは自分が怠け者だと思うのね」というような応答をしておいて、後で「私はあなたが怠け者だとは思わない」と反対の見解を述べることで、却って混乱してしまうクライアントの見極めである。最初は肯定しておいて、後から否定されたというように体験して、混乱してしまうのである。このような人もあるので、いっそのこと、最初から「僕はそうは思わない」とか「そんなことは信じられない」とか言う方が無難なのだ。そう思うようになってきている。
もちろん、僕がそう思わない、そのように信じないと言う時、その根拠になるものを僕が有していなければならない。ただ、闇雲に「否定」しているのではないということである。もし、そういう根拠を僕が有していなければ、「僕にはそんな風には見えないけど、一体、あなたは何があって自分が怠け者なんだと思うようになったのでしょうか」と尋ねたりするかもしれない。
僕はこうした応対を「否定」だとは見做していないのだけれど、見る人によってはこれは「否定」に見えるだろうとは思う。ただ、この「否定」は意味があるのである。
その人にとって、望ましくない何かが前景に出ているのだ。後景にはもっと違ったものがあるだろう。それが表に出るためには、今前景に出ているものは後景に退かなければならない。前景に出ているものを否定するのは、その奥にあるものの存在を信じているからであり、それが前景に出てくることを期待しているからである。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)