12年目コラム(34):人間の潜在性(3)
前2回にかけて綴って来た「潜在性」とは、アリストテレスの言う潜勢態と類似の概念である。
アリストテレスは、「在る」をめぐって、つまり、存在ということに関して、顕現されているものと潜在しているものとの、どちらもが存在に入ると考えているようだ。僕のアリストテレス理解が正確であるかどうかは定かではないけど、僕はそのように理解している。
ここに植物の種子があるとする。この種子は存在している。僕たちはこの種子がここに在るということを認識できる。この種子はやがて花を咲かせ、実を成らせるかもしれない。種子は現実に存在しているが、花や実は存在していると言えるだろうかという問いに対して、アリストテレスは存在していると言えると答えているわけだ。
そして、僕もこの考えに同意している。まだ表に現れていないものであれ、それはすでに表に現れているものと同じように存在しているのだ。金子みすずの詩に「見えないけど、あるんだよ」という一節があるが、それと同じことなのだ。存在に関しては、顕在化していようと潜在的であろうと、そんな区別は重要ではないのだ。どちらも同じように存在しているのだ。
僕たちは潜在的にさまざまな可能性を有している。それらは顕在化していないだけであって、存在していないというわけではない。それらの中でも、生きる上で必要なものは顕在化していかなければならない。
いささか楽観的観点ではあるが、人は皆、自分に必要なものを備えているものである。より善く生きるために必要なものはすべて持っているのだ。ただ、それが顕在化していかなければならないということなのだ。
人が自分の潜在性を顕在化へと導くのは、常に関係においてだと僕は考えている。一人閉じこもって瞑想なんかしても、必ずしもそれが顕在化されるとは限らない。むしろ、他者との関係の中で、僕たちは否応なしに必要なものを伸ばし、顕在化させてきたのである。それが今の僕を形成している。
だから、人間は変わる。変わる可能性をどこまでも秘めている。今までと違った関係は、違った要素を顕在化させていくだろう。精神分析は同じことを言っているのだが、取入れや同一視、対象恒常性といった言葉を用いて述べているのである。
もし、人間の潜在性を信用できないのであれば、僕たちは自分に対しても他者に対しても、何もしてあげられなくなる。顕在化しているものが自分のすべてだとすれば、僕たちはきっと自分自身にこれほど興味を持つこともなかっただろう。未知の部分がたくさんあるからこそ、人間は自己を探索するものである。
僕は人間が潜在的存在だということを信じている。だから、他の人に対しても、その人が良くなっていくことが期待できるのだ。理論や理屈よりも、こうした期待が人を動かしていくものでもあると僕は思う。
一方、人間が潜在的存在であるということは、素直に喜べない点もある。なぜなら、僕たちは決して大丈夫だと断言できなくなるからである。病気を抱えている人には潜在的に健康な要素を有しているのだが、同時に、再発する可能性を常に秘めていることになる。
人間は潜在的に善でもあり悪でもある。何を顕在化させるかは、その人の経験やパーソナリティとも無縁ではない。自分で選べるとも限らない。望んでもいないものが前面に現れるということもあるだろう。
では、人はどのようにして、潜在的に有しているはずの望ましいものを顕在化させることができるだろうか。種子にはすでに花や実が存在しているが、どうすればそれを実現化できるのかという問題である。
このテーマについては、次回において、並びに、それに続く「取り入れ・同一視・対象恒常性」において取り上げたい。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)