<#008-30>子の反応(2)
(子の反応~無反応)
母親がカウンセリングを受けることを伝えても無反応で応じる子もあります。それは賛成も反対もしないし、なんらの感情表出や意志表明もされないといった感じであります。
こうした子の中には、かなり厳密に「ひきこもり」をやっている感じの人もいます。それこそ部屋にこもりきりで、ほとんど部屋から出てこないといった感じの人であります。
中には感情が鈍磨している感じの人も見受けられるのですが、あらゆる刺激に耐えられないといった感じの人が多いように思います。外界の出来事、人の言動など、あらゆることが心の中に侵入してくるのでしょう。あらゆることが心の中に入り込んでくるので、外界をすべて遮断しなければならないのでしょう。
このような子たちは、この遮断を心の中でできず、現実に外界を遮断せざるを得なくなっているようであります。従って、自我境界が非常に脆弱で、透過性の高い自我構造になっているのだと思います。その外見以上に心の中は混乱しているのかもしれません。
こうした無反応とか無関心とかいった反応であっても、子は内面では非常に親のカウンセリングを気にしているという例も少なからずありました。それも、親がカウンセリングを受けるということ、カウンセラーとかかわりを持つということを恐れている感じであることが多いように思います。そうした感情を感じ取れないか、感情を隔離しているか、それとも取り扱うことができずに抑え込んでいるかしているのかもしれません。
子が無反応であると、自分がカウンセリングを受けることの根拠とか自信が揺らいでしまうという母親もいました。この母親は感情的なサポートを必要としているということになるのですが、面白い(と言ったら失礼ですが)ことに、子はそれをまったく与えない人柄になっているかのようでした。
(子の反応~両価的)
先述の無反応というのは賛成でも反対でもどちらでもないといった形の反応でしたが、親がカウンセリングを受けることに賛成でもあり反対でもあるといった反応を示す子もいます。親がカウンセリングを受けることに対して両価的なのであります。
この、賛成でもあり反対でもあるという両価的な感情は複雑なものであり、複雑な感情を複雑なまま抱えるためには、それなりに自我の強さが求められることになります。でも、この子たちはその両価性をそのまま保持できないことが多いようであります。
つまり、この両価性感情は、ある時は賛成し、別の時には反対するといった形をとるわけであります。両者の間を揺れ動き、両者のうちのどちらか一方の態度を見せるわけです。こういう揺れ動きに接して、母親は自分が振り回されていると感じることもあります。昨日は「行け」と言ったかと思えば、今日は「行くな」と禁止されたりするからであります。
この両価的な感情に支配的な傾向が混合していると、カウンセリングを受けろという時には親の都合などもお構いなしに受けさせようとし、禁止する時には親の感情などそっちのけで強制的に禁止したりするなどといった例もありました。
このような子はしばしば母親に対しても両価的であります。母親にべったりしたかと思うと、母親をはねつけるようなことをしたりするのです。母親に依存的になったり独立的になったりを揺れ動くのです。
時に、この両方の感情が分離していることもあります。賛成している時の自分と反対している時の自分とが切り離されていて、自己の連続性が損なわれている感じの子もありました。だから、昨日は「行け」と言ったのに今日は「行くな」と言われた時、母親が昨日は行けと言ったでしょなどと応じても、この子は「そんなことは言ってない」と反応することもあるのです。母親は訳が分からなくなるのです。
感情の両価性の程度はさまざまであると思います。両価的感情がそのまま受容できているのであればそこに成熟の度合いを見る思いがするのですが、両価的感情は自分の中で統合されず、その時々によって、子の状態や状況によって、どちらか一方に納まりがちであるようです。
また、両価的な傾向と近いのでありますが、子にとって、その親カウンセリングが益と感じられている時には賛意を示し、無益と感じられている時は反意をしめすといった感じの子もありました。これは両価的な感情というよりは、自己中心的な視点であり、自身の感情的正当性が優位であると思います。同じ親カウンセリング、同じカウンセラーに対して、感情によって動かされるので、一貫した態度がとれないということなのだと思いました。
子が揺れ動いても、親は一貫している方がいいと私は考えています。親が同じように揺れ動くと、子の中で対象の恒常性が形成されなくなるだろうと思うからであります。
(子の反応に続く親の反応)
親がカウンセリングを受けることを伝えて、子にどのような反応が見られるかを取り上げてきました。賛成、反対、無反応、両価的というふうに分類して記述しました。
子が示すこうした反応に対して、親はさまざまに応答するのであります。子の反応にし対して親が反応を示すわけであります。その反応への反応を取り上げるのもいいのですが、おそらく、たいへん多くの反応があるでしょうから、すべてを記述するわけにもいかず、簡潔に述べることとします。
親がカウンセリングを受けることに賛成する子の場合、親は特に妨害されることなくカウンセリングを受けることができます。
しかし、カウンセリングを受ける親にあれこれと指図してくるといった感じの子の場合、親は困惑することもあります。自分のためのカウンセリングのつもりであったのに、子が割り込んでくるといった体験をされる母親もありました。私の経験では、子がそういうことをしてくるほど親カウンセリングは上手く行かなくなる公算が大きいという印象を持っています。母親は自分の領域と子の領域とを明確に分けることが求められると私は考えています。従って、子があれこれ指図してきたとしても、このカウンセリングの目的、動機などをしっかり意識化しておかなければならないのであります。
子が反対する場合、親はそれに屈するか押し切るかするようです。親が屈する場合、暴力などの行動を子が示している場合もあります。子が怖いので屈するだけであります。また、ずっと屈してきたけれど、意を決して、子の反対を押し切って受けに来るという親もあります。私はそれでいいと考えています。親にも耐えられる限界があるということであり、それを子に示す時も必要であると思うからであります。
無関心・無反応の子の場合、親がカウンセリングを受けることの妨げになることはないものの、子のその反応が気になってしまうという例もありました。つまり、何の反応も帰ってこないことが、自分のその決心(カウンセリングを受けること)の確信を揺さぶるのでした。子の反応を見ると、果たして自分がカウンセリングを受けるのが好ましいことなのかどうか疑問を覚えてしまうということであります。こうした場合でも、親が自分のカウンセリングの目的や動機を自覚することが大事であると私は考えています。
両価的な反応である場合、すでに述べたように、親は子に振り回されるという経験をしていることがあります。子は賛成と反対を行ったり来たりするのですが、親が同じようにそれに付き合って行ったり来たりするというのは、あまり好ましいことではないと私は考えています。子がどう揺れ動こうと、親は安定している方が親と子の双方にとって好ましいと思います。
さて、ここまでは母親がカウンセリングを受けると決心するまでを記述しました。その決心に対して子はいくつかの反応を示します。それがまた母親を困惑させることもあります。親がカウンセリングを受けるまでに困難がいくつもあるのです。
ここから母親のカウンセラー探しの過程が始まるのです。それは次項以後述べるつもりでありますが、それはすでに心的にはカウンセリングが始まっているとみなすこともできる過程であります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)