#008-24>親と子(4) 

 

(父親) 

 父親にも目を転じてみましょう。父親に関しては、母親と比べてお会いすることが少ないということもあって、それほど多くを語ることはできそうにありません。 

 大体において、父親は仕事一筋という人が多いという印象をうけています。悪く言えば「仕事人間」ということになるのでしょうが、仕事に価値を置いている人たちであります。引退してもなお、いくつもの仕事を掛け持ちでやっているという父親もいました。 

また、独立心が強く、会社を経営しているという父親も何人かおられました。 

加えて、上昇志向が強く、職場でもそれなりの地位に就いているという父親もよくおられます。 

 父親たちは、エネルギッシュと言いますか、バイタリティのある人が多いという印象が私にはあります。その分、家庭を顧みることが少なくなる傾向が生まれるようであります。また、エネルギッシュであることが、裏目に出て、激しい一面を家族に見せてしまうこともあるようです。 

 子供はまさにその正反対の生を生きようとしているように私には見えるのです。失礼な話ですが、これは傍から見ていて気持ちいいくらい正反対なのです。子供は仕事に価値を認めず、時には仕事人間を見下したりします。独立心は薄く、むしろ、和を尊びたいという気持ちが強く感じられることもあります。上昇志向は乏しく、むしろ、平等であることを望み、かつ、それを周囲に強要することもあります。しばしば、親に反抗できない子は、親がもっとも価値を置いている部分に対して反抗するのであります。 

 しかしながら、これはどちらが望ましいとかいう話になってはいけないと私は思います。父親には父親の価値観があり、子供には子供のそれがあります。そこは異なっていても構わないことであると私は考えています。生きていく上で、どちらの価値観が有利であるか不利であるかを考えることもできるでしょうが、それはさほど重要なことではないと私は考えています。親には親の価値観があり、その価値観でやったきたことを子が認められること、子供は子供の価値観で生きようとしているということを親が認められること、それが肝要になると思います。決して、どちらが正しいとか、間違っているとか、そういう話に入り込まないようにしなければならないと思います。 

 そのようなわけなので、問題になるのは、価値観の相違ではなくて、双方の拒絶にあると私は考えています。父親はその子供を苦手だと感じていることもあり、できれば関わらないようにしたいと願っていることもあります。子供は、父親を嫌悪し、自分の中に父親を連想させるものを排除したいと願うこともあります。正反対な二人だけに、関係がなかなか上手く形成されないようであります。 

 

(事例より) 

 今の最後の事柄に関して、一例を挙げようと思います。 

その子供は仕事が長続きしません。一つの仕事に就いても、しばらくすると辞職します。それからしばらく引きこもり、再び何かの仕事に就きます。そして、子供はこのサイクルを幾度となく繰り返してきたと母親は話します。その都度、子供はどういう理由で辞職するのでしょうか。子供が母親に語ったところによりますと、熱心に仕事をして褒められるとか、真面目な勤務ぶりが評価されるためであるそうです。どういうことなのでしょう。同じく母親の話では、それが父親のようであるからだということでした。そのように賞賛されたり評価されたりすると、子供は自分が父親と一緒だという気持ちに襲われ、それでイヤになって辞めるということでした。 

 真面目な勤務ぶりとか、熱心な仕事ぶりとか、それはこの子の中にある属性であります。その傾向は彼に属しているものです。つまり、その属性は彼のものであり、父親のものではないのであります。でも、彼はそこが父親と同じだと感じられるので、自分に嫌悪しているということようです。彼と父親とは長年対立してきましたが、嫌悪する父親と同じであるということが耐えられないという気持ちに襲われるようです。 

 この子供は実に損な生き方をしているわけです。父親個人と、自分の中にある属性とは、本来別であります。それに、彼の生真面目さは、そのすべてが父親譲りであるとも限らないはずです。表面的な類似だけでそう決定されているのかもしれません。父親の影響がどれほどあろうと、彼は彼のこれまでの人生でその傾向を発達させてきたはずだと私は思うのです。この子供は、ある意味では、自分の歴史を無視しているのです。 

 お互いに拒絶、排除しあうことは、結局、双方が自己の領域を排除しなければならなくなるように私には思われるのです。親と子、特に父親と息子というのは、多くの場面で対立するものですが、対立はまだいいのです。拒絶は対立に席を譲る方がいいと私は考えています。 

 

(子供を見捨てていない) 

 さて、話を父親に戻しますが、カウンセリングを受けにくる父親は、子供のことを諦めていないのです。子供を見捨てているわけではないのです。「あの子は病気やから、精神病院に放り込んでまえ」と母親に怒鳴るような父親(この父親は現実におられるのです)は、決してカウンセリングなんかに顔を出すことはありません。子供を捨てた方がましだと思えているからでしょう。 

 カウンセリングを受けに来る父親たちは、子供をどうにかしたいという気持ちを持ち合わせています。でも、父親が本当に苦しむのは、子供のことが分からないということにあります。子供のことをどう考えていけばいいのか、また、どう関わっていけばいいのか、そこが分からないと訴える父親もおられるのです。 

 冒頭で、父親は「仕事人間」であることが多いと述べましたが、あまり裕福な子供時代を過ごしていないという人もあります。生きるために早い時期から仕事をしていたという父親もあります。自分の父親とどういう関係を築いていたかさえ、はっきりしていないという父親もおられます。要するに、親子というものがどういうものなのか、よく分かっていないということなのです。 

 そのため、子供に何かがあっても母親(妻)任せになってしまうのです。子供や母親(時に専門家さえ)はこういう父親に対して否定的な評価を下してしまいがちなのですが、単に、この父親たちはそういう場面でどう対応していいかが分からなかっただけなのかもしれません。 

 子供に何かを言う時でも、父親の言葉として語ることができないといった例もありました。つまり、本とかで仕入れた言葉を受け売りするだけで、父親自身から生まれる言葉が伝えられないのです。ある子供は、それを「解説」としか受け取れなかったようですが、それは父親という人間を経験できなかったことを表現しているようにも思われました。 

 そうした受け売りだけでなく、上司が部下に物を言うようにしか子供に物を言えないといった父親もおられました。コミュニケーションがあまり上手でない父親も多いのですが、家庭での会話でも自由ではなく、会社の延長としなければ話もできないのでしょう。 

 子供はこういう父親を嫌悪するのですが、考えてみれば、この父親たちにも可哀そうに思えるところがあるのです。父親は、単に、家族というものがどういうものか、仲のいい親子がどういうものであるかを知らないだけなのかもしれないのです。子供の話に耳を傾けたり、理解したり、共感したりすることが、単に不得手であるだけなのかもしれないのです。なぜ、そうなるのかと言えば、単純に言えば、父親たちにその経験がないからなのです。 

 時に、子供は、父親に無いものを出せと要求します。子供から見れば、父親は有るのに出さないということになっているのでしょう。父親には初めからそれが無いという可能性は子供には信じられないのかもしれません(これは子供が父親をそれだけ理想化している、あるいは、幼い子供に見られる親の万能視の一つだと私は思います)。 

 カウンセリングを受ける父親たちの中には、初めてそれらを学んでいく例もあります。ぎこちないやり方だけど、持ち前の熱心さでやってのける父親もあります。カウンセリングが上手く行くと、この父親たちは家族のことをしっかり考えるようになっていくのです。達成動機、熱心さ、粘り強さのある父親たちなので、それを成し遂げてい父親もおられるのです。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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