008-19>「治療者」になる誤り(後) 

 

(すべてが「治療」に) 

前項で取り上げたケースをもう少し考察したいと思います。それは、娘に「問題」が生じたということで、母親が「治療者」役割を積極的に担っていたケースでした。母親はそれが娘に負担になっていたということに思い至っていませんでした。 

 「治療者」と一緒に生活すること、常に「治療」的に関わられることは、この娘にとっては「病人」以外の存在になることが許されない状況になってしまうのです。現実の「治療でも、患者さんに「治療」以外の場面、生活があるから成り立っているのです。「治療者」と常に一緒にいることは、生活のすべてが「治療」となり、すべての場面でその人が「病人」の役割を取らなければならなくなるという状況をもたらしてしまうように私には思われるのです。 

 この娘は、「患者―治療者」関係を経験するばかりで、「娘―母親」関係を経験しなくなっていたのだと私は考えています。自然な母親は経験されなくなり、不自然な母親としか関係を経験できなくなっていたのだと思います。自分が必要とする関係が得られないという経験をこの娘はしてきたのかもしれません。 

 一緒に生活する母親(その他の家族成員も同様なのですが)が「治療者」になると、「治療」以外の生活領域や関係が損なわれると私は考えており、まず、この点は注意すべきところであると私は考えております。 

 

(治療者と家族は別人であるほうが望ましい) 

 子供たちは退行していたり、未熟な部分を多く残していたりするために、しばしばスプリッティングをするのです。これに関して、親が「治療者」になることのもう一つの誤りが生じるのです。 

子供たちは、一方が善で他方が悪という認知や関係の持ち方をするのです。スプリッティングをするというよりも、そのような形でしか関係が形成できないと言うこともできるかもしれません。 

 もし、母親が「善」で自分の味方であると信じられれば、外部の「治療者」に「悪」が投影されることもあります。「治療者」が「善」であれば、家族に「悪」が投影されることになります。この三者関係において、この人たちは「善」と体験されている人との関係を築き、「悪」を排除しようとするのです。 

 この子供が苦しむのは、一人の人物が「善」と「悪」の両方を担っている場合であります。この子供はそのような相手に対して、愛憎でもって関係を築かなければならなくなるのですが、どのようにして関係を築いたらいいのかで相当に困惑することも少なくないのです。黒か白かと割り切れたらずっとラクでありますが、どっちでもあるからどうしていいか分からなくなるということであります。そういう意味で、当人たちにとってはとても辛い体験となるのです。 

 こうしたスプリッティグは統合されていくことが望ましいとされているのですが、私の考えでは、スプリッティングをしてでも良好な関係を他者との間で形成することが先決なのです。そうでなければ子供は孤立してしまい、尚且つ、その孤立に耐えられなくなるからであります。 

 このケースにおける娘はそれほど激しいスプリッティングをしているわけではなかったにしろ、「自然の母親」と「不自然な、治療者としての母親」との間で、深く葛藤していた可能性も考えられるのです。だから母親と治療者とは別人であった方が良かったと思う次第であります。 

 

(父親が動き出す) 

 母親が「治療者」役割を放棄して、おそらく家族内の何かが変わってきたのでしょう。このケースでは父親が動き始めたという点が特徴的でありました。 

 母親は初めは気づいていませんでした。母親の話の中にちょくちょくと父親のことが出てくるようになったので、「近頃は父親が関わってくるのですね」と私から指摘されて初めて母親が気づいたのでした。 

 このことは不思議に聞こえるかもしれません。でも、この母親にとっては、それが馴染みのある家族の在り方であったので、この変化を違和感なく受け入れていたようでした。かつては当たり前だった光景が再現されただけなので、それを変化として見ることが難しいわけであります。こういう変化は第三者の方がよく気づくものであると私は思います。 

 

(母親の無力感) 

 さて、このケースは私自身深く反省するケースでした。私の誤りも述べなければならないと思います。 

母親に「治療者」役割を止めることは伝えられたものの、「治療者」になろうと欲している母親の無力感をもっと取り上げておくべきでした。母親が娘に対しての、また自分自身に対しての無力感を抱え続ける限り、母親は「治療者」役割から離れることができないかもしれません。 

 今の最後の部分を補足しておくと、「治療者」になるとは、他者に対して大きな影響力を持つということなのです。頻繁に無力感に襲われる人が「治療者」に憧れることがあるのですが、そういう人にとってはそれだけの力ある存在として見えるからでしょう。 

そう仮定すると、母親が無力であればあるほど、そうした影響力を母親は求めてしまうでしょう。そこを取り上げられずに、「治療者」役割を放棄することだけを求めた私が間違っていたのかもしれません。今でも深く反省するケースであります。 

 「治療者」ではなくなった母親が「治療者」に舞い戻った瞬間に何が起きていたでしょう。もう一度その場面を思い出してみましょう。 

 それは、アルバイトを始めた娘がアルバイト先で経験した困難を母親に話していた時でした。母親の視点に立てば、勤務先での困りごとを娘から訴えられている場面です。私は母親がなんらかの無力感を経験したのではないかと思います。その時に、母親が「治療者」に戻ってしまったのだと思います。娘の困難に対して、何もしてあげられない自分を母親は経験していたのかもしれません。母親はその何もしてあげられない自分」を受け入れることができなかったのでしょう。 

 もし、その時、母親が、「治療者」としての言葉ではなく、「母親」としての言葉をかけていたとすれば、それはどのような言葉になっていたでしょう。「たいへんだったね」とか、「今日はゆっくりお休み」といった言葉になっていたかもしれません。こうした言葉であったら、娘との関係も破綻しなかったかもしれません。あるいは、「そういう時、どうしたらいいかお母さんも分からないわ」と、無力感をそのまま表現した方がまだましであったかもしれません。 

 母親は娘の困難を何とかしようと焦り、それでいて何にもできない自分を経験し、治療者に扮してしまったようなのですが、上述のような共感やねぎらいの言葉こそ本当は「治療的」な言葉でもあります私の言っていることが矛盾しているように聞こえるかもしれません。母親は自分のイメージする「治療者」像に固執していた部分もあったかもしれません。それは他者に影響力を発揮できる万能の治療者像であったのかもしれません。そのような治療者は「患者」にとっては負担となるものであると私は思うのです。 

 

(まとめ) 

 本項では親が「治療者になる」という誤りを取り上げました。それは「治療的である」ということとは別なのです。それでも、親は親なので、「治療的である」必要もないと私は考えています。親が「治療者」になることは、必然的に子供は「病人」の立場に追いやられることになり、加えて、子供の生活のすべてが「治療」の場になってしまうことが問題であると私は考えています。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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