#008-16>傾聴の誤り 

 

(コミュニケーションに関する事柄) 

 親たちがうっかりやってしまう誤り、知らず知らずのうちにしてしまう誤り、誤りと知らずにしてしまう誤りなどを綴っていのですが、あまり誤りばかりを指摘されるとこれを読んでいる親たちは辟易されるかもしれません。案外、見落としている誤りがあるかもしれないということがご理解していただければそれで結構であります。 

 これまで、様子を見るとか、診断名を付すとか、親の認識に関係する誤りを取り上げてきました。ここではコミュニケーションに関する誤り取り上げることにします。 

 本項は「傾聴」の誤りというタイトルを付していますが、傾聴することが、時には間違った行為になるという点を指摘したいと思います。 

 

(話を聴く場合と打ち切る場合) 

 育児書や類似の書籍を紐解くと、子供の話をしっかり聞きましょうなどと書いてあります。臨床家も親に対してそういう助言をすることもあります。おそらく、話を聴きましょうという提案自体は間違ってはいないことでしょう。 

 ただし、その提言には、相手の状態、場面、聴き手の状態など、その時々の状態に応じて正にもなり否にもなる私は考えています 

 まず、なかなか自己開示しないという人がいます。栓をまったく緩めないと言う人です。もしくは、ゆっくりと時間をかけて自己を表現するというような人もいます。こういう人にたいしては、時間をかけて、丁寧に聴いていくというのは、正しいことでしょう。 

 一方で、内面が噴出してしまうという人があります。これは栓を締められないという人です。こういう人に対しては、話をそれ以上聴かない方向で、つまり、栓を締めるのを手伝う形での援助が正しいものになると私は考えています。 

 前者の栓をまったく緩めないという人でも、一旦堰を切ったら止まらないという人もあるので、そうなると後者と同じように栓を締めるのを手伝う必要が出てくるのです。 

 それ以上に話を聴かない(栓を締める)というのは、「もう、それくらいにしておきましょう」とか、「一旦、それは心の中に仕舞っておこう」と提言することであります。もしくは、「明日、また続きを話し合おう」と、時間を置くことなどであります。そうして、話がそれ以上迸らないようにするわけです。 

 

(話を制するタイミング) 

 どのタイミングで話を制すればいいのかという疑問も生まれるでしょう。私は次の3点があると考えています。 

 一つは、その人の話が破壊的な色彩を帯びてきた時です。怒りや恨みを話している分にはまだまし(それでも幾分遅いけれど)なのですが、それがやがて破壊的な様相を帯びてきます。その時にその話を終える方がいいということです。ここでの破壊的というのは、「殺すぞ」とか「死んでやる」とか、自他に対しての破壊的な表現ということです。破壊的な感情はあまり引き出さない方が相手を助けることになるのです。 

 次に、話が現実から遊離してきた時です。つまり、その話に非現実な様相が、言い換えれば妄想のような色彩が帯び始めた時であります。妄想が妄想を生んで妄想体系を形作るように、これをそのまま傾聴していくと、納まらなくなることもあるのです。抽象的な表現でありますが、体験レベルの話から観念レベルの話になっていった時打ち切る進んだ方がいいとということであります。 

 三つ目として、これが一番単純でありながら一番重要なタイミングなのですが、聴き手(ここでは親)がイライラし始めた時です。イライラが生じると傾聴できなくなるということもあるのですが、それだけでなく、そのイライラは話し手(子供)の「病理」が発現したことによる場合が多いからであります。放置すると、病理がどんどん吹き出すことになるかもしれないのです。だから制してあげる方が話し手にとって望ましいことになるのです。 

 

(ある程度の甘えが満たされればよい) 

 親子は親子であって、カウンセラーとクライアントではないのですから、親はカウンセラーにならなくてもいいし、カウンセラーのように傾聴しなくても構わないのです。 

 一つ、重要な点は、「話を聴いてほしい」というのは、甘えの表現であるということです。これは覚えておいて損はないと思います。子供が「話を聴いて」とやって来るとき、子供は甘えたくなっているのだと考えてまず間違いないと私は思います。従って、その甘えがある程度満たされれば、その時点で話を打ち切って構わないということになるのです。 

 もし、甘えが満たされると、話に一段落つく感じが生まれます。そういう感じを感じた時点で、「今日はこれまでにしておこう」と話を終えていいのです。それ以上に付き合う必要は、基本的には、ないと私は考えています。但し子の中にはそうした「甘え」ができないという感じの人もおり、また、「甘え」を満たそうと欲しながら全く別のことに従事してしまってる感じの子もあり、なかなか一筋縄ではいかない例も多いと私は感じています。 

 

(聴き手の存在) 

 先ほど、話を制するタイミングとして三つ挙げましたが、一つ目と二つ目に関しては、それをある程度抑えることも可能であります。 

 話が破壊的になること、または、話が妄想的になることというのは、言い換えると、話し手自我が現実から遊離していることを表しているように私には思われるのです。現実性が薄れ、空想が支配的になっているわけです。 

 なぜ、話し手の現実性が希薄になるのかと言うと、いくつかの要因があるのですが、聴き手が存在を示さない場合あります。積極的に相槌をうち、介入しないからなのです。話し手にとって、そういう聞き手は現実の実在者として体験されなくなってしまうのです。聴き手の内面のさまざまな感情が活性化され、透明な存在者に投影されてしまうのです。カウンセリングや心理療法の場面ではそれが治療的に意義があるとしても、親子の間でそのようになることは、親をさらに苦境に立たせることになると私は思います。 

 聴き手が現実の実在者であると話し手に見えている限り、話し手は現実に留まることができ、その分、現実から遊離する度合いが少なくなるのです。話し手が現実に根付いている限り、破壊性や妄想性は生じにくくなるのです。 

 

(制限の設定) 

 もし、話を制することが難しいと感じられるなら、最初から制限を設定しておいてもいいでしょう(私の本音を言えば、常にそうする方がいいと思います)。例えば、話を聴いてほしいと子供が来た場合に、「30分程度ならいいよ」などと、終了を明確化しておくということです。無制限に傾聴することは、親にとっても子にとっても、疲弊し、消耗し、現実から遊離してと、あまり得策ではないのです。 

 親には親の生活があり、仕事などもあります。子供に付き合い、子供に独占させることは意味があることとは言え、制限を設け、親が親の生活に戻るのを子供に示す必要もあると私は考えています。 

 

(仄めかし) 

 最後に、聴き手(親)がイライラした時に話を打ち切っていいと述べましたが、このイライラは実に曖昧で、モヤモヤした気分として体験されることも多いようです。その気分がかなり形を成してくると、イライラとして知覚されるのだと思います。 

 このイライラ乃至はモヤモヤには理由があるはずです。非常に微妙なコミュニケーションの歪みが生じていることもあります。この場合、やりとりを正確に記録して、逐語的に作成して、丹念に見ていくことが有効であります。 

しばしば、私はカウンセリングの場で親と一緒にこの作業をします。そうすると、大概、意味のはっきりしない表現、どちらにも取れるというような表現、よく分かるようで何が言いたいのか分からないというような表現、裏の意味が読み取れそうな表現などが見つかるものです。 

よくあるのは、観念的な表現でもって具体的な場面を相手に想起させようとする話し手の努力であります。話し手が何か具体的に話すことを回避しているような表現であります。それはある種の仄めかしのようであり、遠回りの示唆であるように感じられたりするのです。さらに、曖昧であるが故に拘束力があり、聴き手に何か「引っかかり」を残したりするのです。 

 

(本項まとめ) 

 少し話題が広がり過ぎた感もありますが、本項の主旨としては、傾聴は時には良くない場合もあるということでした。適度に傾聴して、一方で制限も設け、時にはその話を制しなければならないこともあるのです。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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