008-17>伝わっていると信じる誤り 

 

 前項では親が子供の話を傾聴する時の誤りを取り上げました。本項では、親が子供に伝える際に、それが明確に伝わっていると信じ込んでしまうという誤りを取り上げます。 

 次に挙げるのは少し極端な例でありますが、ある意味では分かりやすい例でもあるので、提示したいと思います。 

 

(事例) 

 ある母親は自分自身の抱える「問題」と娘の不登校をどうにかしたいということでカウンセリングを受けに来ました。 

 この母親は娘に無理して学校に行かなくてもいいと伝えているそうです。娘の不登校の問題よりも、むしろ、娘との関係で悩んでいるようでした。 

 母親の言うところでは、娘と会話をすると娘が逆上するそうです。娘は「お母さんの言うこと、訳が分からない」と言って怒るそうです。 

 私もこの母親と面接をしていて、娘の言うことが頷けるようにも思いました。母親は自分自身のことを話す時には大丈夫なのですが、話題が娘のことになると、話が支離滅裂になってしまうのでした。何かひどく感情的に掻き乱されてしまうようです。 

 娘の不登校について母親が語っている部分を取り上げてみましょう。 

 「朝になると娘は起きようともしないし、何をされるのか不安で、学校に無理に行かなくてもいいと言っているのに、学校のことで気持ちがいっぱいになって、これでいいのかと気持ちも焦って、過ちを指摘されるのは仕方がないとしても、それは避けたいと思うし、好きでこうなったわけでもないのに、同じようになってしまわないとも限らないし・・・」 

 母親の話はこんな感じで延々と続くのでした。 

ここには主語がまったく明確にされておらず、文章に区切りがなくなっています。目的語や補語も曖昧になっています。母親の中でひどく曖昧なことが起きているように思われます。 

 少なくとも、ここにはいくつかの母親が見え隠れしているように思われるのです。少し、上記の部分を一つ一つ区切って、丁寧に見ていきましょう。 

「朝になると娘は起きようとしない」―これは朝起きて欲しいという母親の感情なのでしょう。ここには困惑する母親がいるかもしれません。 

「何をされるのか不安で」―ここで母親が何か恐れ始めているようです。娘から何かされるのか、あるいは学校から何かされるのか、はっきりとは分かりません。怯える母親がここには現れているようです。この不安が後の発話に引き継がれていくようです。 

「学校に無理していかなくてもいいと言っている」―これは娘の味方であろうとしている母親の姿が見えてきそうです。母親は何かを恐れているけど、自分は娘の味方であるということを主張することで、この恐れを緩和しようとしているのかもしれません。 

「学校のことで気持ちがいっぱいになる」―おそらく、これは母親自身の体験なのでしょう。ここには娘が学校に行かないことに対する不安が生まれ、その不安が母親を占めてしまうということなのだと思います。 

「これでいいのかと気持ちが焦る」―先の不安から、母親としてこれでいいのだろうかという疑問が生まれるようです。母親として正しいことをしなければと思うのかもしれません。この感情は次の発言にも引き継がれているようです。 

「過ちを指摘されても仕方がない」―娘の不登校のことで母親が責を問われるかもしれないと思うようです。ここでは、そうされても仕方がないということを認めようとしているようです。無力さの表れとして考えることができそうに思います。 

「それは避けたいと思う」―でも、責を問われることに耐えられないと母親は感じ始めたのでしょう。認めようとした矢先に、認めることができないと否定しているわけです。無力のままでいる自分に抵抗したくなるのかもしれません。 

「好きでこうなったわけでもないのに」―母親は娘のことで責を問われるのは不当だと思い始めたのか、あるいはそう思うことで罪悪感を覚えるのか、少し自己弁護をしようとしているようです。 

「同じようになってしまわないとも限らない」―これは娘が自分と同じようになってしまうかもしれないという不安なのだと思います。 

 このように見ていくと、娘のことになると、この母親は一貫した人格を保てなくなるようであります。あまりに強い不安が襲ってきて、人格の統一が損なわれてしまうのでしょう。当惑する母親、不安に苛まれる母親、過ちを認めようとする母親、それに反発してしまう母親といった具合に、さまざまな母親が瞬時に入れ替わるような印象を私は受けました。娘が訳が分からなくなると訴えるのは、母親が一貫しなくなるからだと思われるのです。 

 一体、何がこの母親を苦しめているのでしょう。私には何も分かりませんでした。ただ、母親自身、高校時代に道を踏み外したという経験をしているようでした。具体的には話してくれなかったのですが、その経験を母親は受け入れることができないように思われるのです。 

 本項では娘との会話に焦点を絞りましょう。母親は娘に普通に話しているつもりでいたようでした。人は、自分が何を相手に伝えたかはよく覚えていても、それをどんなふうに伝えたかに関しては、なかなか盲目なところがあるように私は思います。この母親はいささか極端な例であるかもしれませんが、親が子供にそれをどんなふうに言ったかを問われると、正確には思い出せないといった例も多いのです。 

 

(手に負えない状況) 

 上述の母親は極端な例でしたが、子供と話をしていて、自分が何を言ったか、どういうふうにそれを言ったのか、自分でもはっきりしないという親もけっこうおられるのです。これは親自身にさまざまな感情が掻き立てられてしまったり、強い不安に襲われたりして動揺するためであると私は思います。子供のことが手に負えないと感じられるほど、自分を意識化することが難しくなるのでしょう。困難な状況に立たされて、自分がいささか曖昧になってしまうのだと思いますが、これは、ある程度まで、どの人にも生じ得ることだと思います。 

 私もとても緊張した面接試験でそういうことを経験したことがあります。部分的には覚えているのですが、何をどのように言ったか、どういう順序で話したかなど、細部に関しては非常に曖昧になっている所がたくさんあるのです。その時自分を意識化することが難しかったのだと自分では考えています。 

 こういう状況であると、自分としては明確に相手に伝えたつもりでも、現実にはどうであったのか疑問になってきます。もしかすると、相手にはそれほど明確に伝わっていなかったかもしれないとも思うのです。 

 私の経験は置いておくとして、親たちは子供のことで多くの困難を経験しているので、自分が曖昧になってしまう場面もあるかもしれません。親自身がそれにはっきり気づいていないかもしれません。親は伝えたつもりでも、子供には伝わっていないかもしれません。そういう誤りがあるということです。 

 尚、同じことは子供の側にも見られることです。子供は何かを親に伝えたつもりであっても、親には子供が何を伝えようとしているのか皆目分からないといった場面もあるのです。実は子の方が曖昧で伝達性の低い表現をしているのに、母親がそれを理解しないと言って憤慨する子もあるのです。これに関しては親だけの誤りというわけではないのです。 

 親は(親に限らず)自分のコミュニケーションを時折にでも見直してみると良いと私は考えています。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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