#008-13>「記憶違い」を正そうとする誤り 

 

 私は今、この親カウンセリングの原稿を書くために時間に追われています。忙しない日々を送っています。それでも、去年の旅行ではゆっくり羽を伸ばしたことを覚えています。今はてんてこ舞いでも、あの時はそうではなかったという区別がついています。 

 こうした区別は自我の働きによるものです。自我現在の自分過去の自分とを混同することがないように機能しています。 

 もし、自我が弱体化しその機能が低下してしまうと、このような働きが困難になることがあります。現在が過去に流入したり、過去が現在を支配したり、あるいは未来に関する空想が現実に位置し始めたり、そうした現象が起きるのです。 

 現在が過去に流入するとは、現在の感情で過去の経験のすべてを見てしまうということであります。現在の感情で過去の経験が塗り替えられてしまうということです。もし、現在が苦しいとすると、過去のあの経験も苦しいものだったと見てしまうということです。本当は愉しい経験であったのに、現在の心情で過去経験が影響されてしまうわけです。 

 一例を示しましょう。 

 

(事例) 

 母親の話では、娘と父親の間で戦争が勃発していました。 

娘に言わせると、父親は「幼児性愛者」(これは娘が父親を病名で呼んでいるということです)で、自分は父親からの性的被害に遭ってきたということでした。 

むろん、父親はそれを否定します。娘はそれを認めろと迫り、父親はそれは違うと言って反論し、両者の間で争いが絶えなくなっていきました。 

 娘が父親から性的被害を受けたというのは本当でしょうか。母親はそれを否定します。少なくとも、母親の知る限り、父親が娘にそういうことをしたという記憶はありませんでした。 

 では、娘はどの場面のことを言っているのでしょう。母親は一枚の写真を見せてくれました。どこかの旅行での写真でした。父、母、娘の三人が仲良く映っています。普通に見れば、愉しそうな家族旅行の一場面にしか見えないでしょう。 

 娘はそれも性的被害だと言うそうです。母親に指摘されてよく見てみると、なるほど、父親は娘の腰辺りに腕を回しています。父親が性的欲望を満たすために、娘を抱いたのだと娘は訴えているそうです。 

 写真に写っている娘は嫌がっている様子ではありませんでした。むしろ楽しそうにさえ見えます。母親の記憶でも、この旅行を娘は楽しんでいたそうでした。 

それから十数年を経て、娘はあれは性的被害だったと訴えているわけであり、父親も母親もそれは違うと説得してきたものの、娘には伝わらず、それで両親が訳が分からなくなっていたのでした。 

 

(思い込むのは自由である) 

 現在の娘にとって、それが性的被害であるということは、一つの事実として見られています。いくら反論したところで、通じないでしょうし、親が反論すればするほど、娘はその確信を高めてしまうでしょう。 

 反論するよりも、「そう思いたければどうぞ」と言う方がましであると私は考えています。現実は違っていても、本人がそう信じるのは本人の自由であります。争ってみたところで益があるとも思えないのです。 

 

(事例補足) 

 この娘に性に対する嫌悪感があることは想像に難くありません。どうも恋愛で失敗した経験があるようでした。それ以来、娘の様子がおかしくなったと母親は語ります。 

 娘は、現在、性への嫌悪感がある、それはいいとしましょう。その嫌悪感は現在だけに収めることができず、過去にも飛び火しているのです。ここではこの飛び火が問題になるわけです。異性に触れられた経験はすべて現在の感情で塗り替えられてしまうのです。 

 ちなみに、この娘は母親にカウンセリングに「行くな」と要求します。娘は、母親が男性カウンセラーと会って、そこで何かよからぬ性的行為をしていると断言しているのでした。つまり、他者(母親)に関しても、娘は自己の感情、嫌悪感を投影し、それが「疑い」や「気掛かり」といった段階を飛び越えて、一気に事実性を帯びてくるように体験されていたようです。 

 カウンセリングに行くなと言われて、母親はどうしようかと悩んでいました。私は、私たちにはやましいことがないのだから、堂々としていればいいと母親に伝えます。行くなと言われて行くのを止めてしまうと、「やっぱりそうだったのだ」と、娘はますます自分の疑惑が的中したと信じてしまうでしょう。その経験は、娘をして、ますます現実を歪め、歪められた現実を現実そのものと思い込ませてしまうことになりかねないのです。 

 

(今すぐ正す誤り) 

 このような誤りは、言い換えると、「今すぐ正そう」としてしまう誤りと言ってもいいでしょう。もし、この娘が心的に回復すると、「あの時は本当にそう思えていたけど、今はそれが違うということが分かる」と言えるようになるかもしれません。それまで待てばいいということなのですが、この父親は今すぐ娘の誤りを正そうとしてしまうのでした。それで娘と父親との間で争いが絶えない状況続いていたのでした 

 この父親という人も、どうやら強気というか勝気というか、そういう傾向のある人で、娘の非難に真正面からぶつかっていったのでした。「おまえ(娘)からそんなふうに思われるなんて、父さん悲しいよ」とでも言えていたら良かったかもしれません。 

 この父―娘闘争のはざまに立たされて、母親は右往左往している状態でした。娘は母親にも父親がそういう人間であることを認めろと迫ります。一方で、母親は父親がそういう人間ではないことを娘に分かってほしいと欲しています。どうしたらいいかと母親は私に尋ねてきます。 

 私の答えは簡単でした。何も分からないフリをしなさいというだけでした。「アホなフリをすればいい」と言ったのだと思います。 

 母親はそれを実行します。娘が父親のことで母親に詰め寄っても、「母さんには、そんな難しいこと分かんないわ」などと母親は繰り返すのでした。娘は母親に見切りをつけたのでしょうか、徐々に母親に詰め寄ることがなくなったそうでした。それでいいと私は思います。娘には娘の問題があり不満があるとしても、母親が自分を守れるようになれば、それでいいと私は思うわけであります。 

 ちなみに、こういう記憶違いや思い違いというのは、ひどくなると「妄想」に近づいていきます。本当の「妄想」であれば、いかなる説得によっても訂正されることはないでしょう。この娘の言っていることは、限りなく「妄想」に近いのですが、案外、あっさりとそれを放棄したように見えるので、「妄想」とまではいかないように思われました。 

 母親がそれに対して反応しなくなると、娘もそれを持ち出さなくなっていったのでした。その後、父親が幼児性愛者であるとか、そういった話は影を潜めたようでした。 

 

補遺 

 少しだけ補足をしておこうと思いますこの娘には性的嫌悪感あります。恋愛に失敗したというのも、おそらく性関係でつまずいたのだろうと私は推測しています。性に関する事柄を受け入れることができないのは、この娘さんの自我が脆弱で、圧倒されてしまうからであろうと私は思いました。 

 自分に性的嫌悪があること、並びに性的な事柄が上手くいかないこと、これをどう受け入れるかということが当時の娘さんには迫られていたのだと思います。そこで、どういう経緯をたどったかは不明でありますが、娘は父親による性的被害のために自分は性的なことが受け入れられなくなったのだと信じているのです。要するに、自分がこうなったのは父親のせいであって、自分が悪いわけではないという話になるわけでありますが、そうしなければ彼女は自分に耐えられなかったのだろうと私は察します。 

 ところが、父親も母親も娘のその信念を否定します。これを否定されるということは、受け入れがたいものを受け入れなければならないことになり、娘にとってはなんとしてでも避けたい事態であっただろうと思います。頑ななまでにその信念を押し通すのは、むしろそれに必死になってしがみついているようにも見えるのであります。 

 母親が無知のふりをするということは、家庭内から性的な話題が影をひそめることになっていったのだと私は思います。その話題はひたすら娘が持ち込むものであり、両親がそれに反発することでその話題が維持されていたのでした。母親はその話題が持続することを止めたことになるわけです。家庭内がその話題で充満しなくなるほど、娘は家庭が危険な場所ではなくなっていっただろうと思います。だから徐々にそのような話が出てこなくなったのだと思います。娘さんが現在において性的な問題を過剰に意識しなくなると、過去経験にそれを投影することもなくなっていったようであります。しかし、だからといって、娘さんの状況は変わっていないし、娘さんの抱えている問題はそのまま彼女の中に存続しているのです。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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