008-12>「病名を付す」という誤り 

 

 親たちが子に対してする誤った行為のうち、本項では子に病名を付すというものをとりあげます。まずは事例を挙げましょう。 

 

(事例より) 

 子供の問題ということで、最初は父親が予約を取られたのでした。当日、私は父親が一人で来談されるものだと思い込んでいたのでしたが、母親も一緒に来られたのでした。父親が一人で来られるものと思っていたと私が申し上げると、父親は「こういうことは家内も一緒でなければ」云々と答えました。母親に向かって、「お母さんはどう思われますか」と尋ねます。母親は「そうですね、わたしも是非と思って」と答えました。 

(注:これは昔のケースであり、当時は夫婦同席面接も実施していましたが、現在ではしておりません。現在では父親と母親と個別に面接するようになっています) 

 この家族においては父親が主導権を握っていて、母親はそれに追従してしまうという関係が見えてくるように思われました。 

 面接開始。父親は開口一番「息子は解離性障害なんです」と話します。 

 私「それはお医者さんがそう診断されたということですか」 

 父親「いえ、子供は医者に診てもらおうとはしないので」この返答上のいに対応していない 

 私「では、解離性障害という診断はどこで貰ったものでしょうか」 

 父親「そうとしか思えないのです」この返答もまた回避的である) 

 私「なるほど、お父さんから見ると子供は解離性障害に見えるということなんですね」 

 父親「本に書いてある症状がまったくその通りで」これも回避的な返答である) 

 私「その本は息子さんが書いてありましたか」 

 父親「診断リストによくあてはまるし、症例なんかも読むとそうじゃないかと」ここまで来るとこの父親がいかに問いを無視しているかがわかるかと思います) 

 私「その症例の患者さんは息子さんでしたか」 

 父親「そっくりでした」ようやく問答が成立し始めています) 

 私「その患者さんは息子さんでしたか」 

 父親「よく似ているんです」 

 私「よく似ているというだけなのですね。その患者さんは息子さん本人でしたか」 

 父親「いえ、息子とは別の人なんです」やっと私の問い返答とが成立した) 

 こういうやり取りが初めになされました。父親はまったく理解できていないようでしたが、母親はこれを聴いていて何か思い至ったように私には見えました。そこで、 

 私「お母さんはどう思われますか」 

 母親「今の(やりとり)はよく分からないけど、(私たちは)子供をきちんと見ていないということでしょうか」 

 

(それで理解したと錯覚する) 

 上記の部分を説明しておきましょう。 

 まず、父親は子供を解離性障害であると見ています。この見立ては正しいかもしれませんし、まったく間違っているかもしれません。しかし、そんなことはどちらでもいいことです 

 一部の親たちはこの父親のようなことをしてしまうのです。相手に対して病名を付けるわけですが、名前をつけることで私たちは相手を理解したような錯覚に陥ることもあります。四足でワンワン鳴く動物を「犬」と名付け、その動物を見ると私たちはそれが「犬」であることが分かります。でも、それはその動物が犬であることが分かっているだけであって、その犬固体を理解しているわけではないのです。 

 私は火星を知りません。しかし、火星に関する本を読めば、火星に関する知識は増大するでしょう。でも、それは単に私の知識が増加したというだけのことであって、火星のことを何も分かっていないということに変わりはないのです。実際に行ったわけでも、見たわけでもないからです。 

 本当は名前を付しただけであったり、書物で知識を得ただけのことなのですが、私たちそれで対象を理解したと信じてしまうのです。こういう誤りをしてしまうことが人間にはあるのです。 

 

(それ以上に視野が広がらない) 

 もう一つの問題は、息子は「解離性障害」であると父親の中では決定していたことです。この決定は子供をそれ以外の目で見ることを妨げるのです。実際、どの「病気」も個人の一部なのであって、その人全体を示す概念ではないのです。病名を付されてしまうと、その病名が彼のすべてに見えてしまうということも起きるのです 

 もし、医師がそのような診断を子供にしたのであっても、それはあくまでもその医師が子供の中から取り上げている一部分なのです。その診断が子供全体を示しているわけではないのです。 

 

(価値下げと撤退) 

 さらに踏み込んだ解釈をすれば、他者を症例として見る、もしくは他者を診断名で把握するということは、その他者の価値を貶める行為であるのです。彼は一個人ではなくなるのです。つまり、「彼は○○病」だと評価することは、「○○病彼」というように、個人は病名と交換可能な存在になり、彼は人格的存在ではいられなくなるのです。 

 病名にしろ、理論の名前にしろ、それらの言葉には感情が一切含まれていないものです。「解離性障害」といった言葉には、何の感情も付与されることもなければ、愛や慈悲が込められているわけでもないのです。診断名を付すという行為は、無感情でも可能なのです。相手に対してなんらの感情を抱くこともなしにできる行為なのです。 

 言い換えると、ある人が他者を病名で呼ぶとき、その人は相手から一切の感情を撤退しているのだと私は思います。 

例えば道端で喚いている人を見て、私が「あいつは病気だ」と評する時、私はその人を診断しているのではないのです。私は相手に対して心を閉ざし、相手との感情的関わりを回避しているのです。感情的関わりを拒絶し、ただ、ある名前を付すことで他者を非人格化しているに過ぎないのです。それによって、私はその他者を排斥していることになるのです 

 

(方向違い) 

 この父親は息子に診断を付しています。その結果、どうなったでしょう。このケースの続きを述べておきます。 

 父親は息子を解離性障害であるとみなしています。父親は解離性障害について随分調べてきた歴史があります。それで何がもたらされたかと言いますと、解離性障害についての知識が父親に身についただけであり、息子のことは理解できないままでいるわけです。 

 ひどい場合には、解離性障害の特性にあって、息子には属さない特性が、息子が解離性障害であるという信念だけで、それが息子にもあると父親は思い込んでしまうのです。臨床像にある項目のすべてが息子にもあるはずだと信じ、また、そのように見えてしまうということが起きていたのでした。そして、息子に属することで、臨床像にはない傾向は無化されていたのでした。 

 もし、極端な表現を許していただければ、こういう風に言うこともできるでしょう。父親は本当は息子を見ることを回避したいのであると。詳細は省きますが、実際、父親から見ると、息子には受け入れがたい部分がたくさんあるのでした。父親は息子を見ることを回避し、臨床像だけを見ることで、それ(息子を見ること)を置き換えていたのでした。それによって、父親は息子のことを考え、息子に関わっていると信じていたのでした。 

どうもこの父親はそういう形でしか息子と関われないようでした。父親は息子とどう関わってよいかが分からないのです。受け入れがたい部分ばかりが見えてしまうので、そうなってしまうのでしょう。息子を「解離性障害」に置き換えなければ、息子を見ることができなかったのでした。そのように私には思われたのです。 

 

(本項まとめ) 

 親が子供を「○○病だ」とか、時には子供が親を「△△障害だ」と呼んだりすることもあるのですが、個人を診断名で呼ぶことは、その個人の価値下げ行為につながると私は考えています。ちなみに、自分自身を病名で呼ぶときにも同じことが起きていると私は信じています。 

これは医師が患者に診断を下す行為とはまったく異なるものであります。医師は治療のために患者に診断を下すのです。この診断があるから治療行為が可能となるわけであり、これは患者を価値下げするものではないのです。 

 相手を病名で呼ぶことにより、私たちはその相手から感情的に引き下がり、もしくは感情的に距離を取ることができるのです。病名を付した時点でその相手個人を見なくて済むからであります。相手を非人格化できるのであります。 

 どのような病名も、現象に対して命名されているものであり、人格に対して命名されているものではないということは銘記しておいても良いと私は考えています。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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