3月4日:書架より~『買い物しすぎる女たち』を読む(4)

3月4日(木):書架より~『買い物しすぎる女たち』を読む (4)

 

(第4章続き)

 この第4章は、僕から見れば、ほとんど読む価値のない部分である。でも、本章を読んで怖い思いをしたという人もおられるのではないかと僕は危惧するのであるが、そういう人のために少しだけ説明したいと思う。実は、僕も読んでいて怖くなった。怖いというより、なんていうか、安心感が急速に減少していくような感覚を味わったのだ。この感覚がどこから生まれるのかを僕なりに考察したので記述する。

 

 まず、本書は概念規定をきちんとしないと僕は批評している。概念規定がきちんとなされていないと、曖昧な部分がそれだけ多く生まれることになる。良心的な著者はそういう曖昧な部分をできるだけ発生させないように、できるだけ概念を明確にしようとする。もっとも、それでも曖昧な部分を完全に払拭できるわけではないが、できるだけ曖昧さを出さないように努めるものである。哲学書や学術書が分厚いのも一つはその理由である。個々の概念をきちんと明確化するために項が費やされるからである。

 曖昧な部分が生まれた場合、読者はそこを個人的な推測で埋めてしまう。こういうことなんだろうというふうに一人合点する場合もある。それは要するに、そこに自分に属する観念(著者に属しているものではない)でもって解釈したりして、曖昧な部分や欠けている部分を埋め合わせるということだ。一言で言えば、そこを読者は自分の心的内容物で埋めてしまうということなのだ。

 自分に属する観念でそこを埋め合わせるので、読者はいやが上にもその文章に自分自身の何かを見てしまうことになる。これは要するに「自分にぴったり当てはまる」という体験をするということである。ある意味では、自分にピッタリ当てはまるはずなのだ。そこに自分のものを投影していて、自分に属しているものを自分で読むのだからそうなる。鏡に映る自分を見てなんて自分と瓜二つなんだと驚いているようなものである。

 少し話は逸れるけれど、自分にピッタリ当てはまるというような本は要注意である。著者は僕のことを知らないはずである。それなのに著者が僕のことをピッタリ言い当てるなんてことはできないはずである。百歩譲って、一冊の本に「自分に似た人」を見いだしてしまうことはあるとしよう。でも、「自分と同じ人」を見いだすとしたら、やはりそれはどこかが間違っているのだ。

 本章ではさまざまな家族、それも機能不全家族という曖昧な概念に属する家族が登場するが、上記のような投影が起きているとすれば、読者はそこに自分の家族を見いだしてしまうことになるのだ。しかも、読者は意図せずに、ほとんど強制的にそれをさせられてしまうのだ。

 

 心的投影物によって埋め合わせたからそこに自分自身のものを読み取ってしまうということは分かるとしても、なぜそれが強制的になされるのかと疑問に思う人もあるだろう。次に、この「強制感」について述べよう。

 前項で述べたように、本章は二重拘束状況に読者を追いやると僕は感じている。あなたはAであって、あなたはAではないといった記述がいくつかなされているように思えることを僕は綴った。この二重拘束的な状況は読者をして落ち着かない境遇へと誘う。一体自分はAなのかAではないのか、どっちなんだっていう気持ちが生まれるかもしれない。これを解消しようと読者は欲するのだが、そこに「強制感」が生まれると僕は思うのだ。この状況は読者がもたらしたものではないにも関わらず、この状況からの脱却は読者がしなければならないということになるからである。

 そこで読者は矛盾するメッセージのうちの一方を積極的に支持しなければならなくなってしまう。おそらく一般の読者はそうしてしまうのではないかと思う。その時に、「私はおかしいのではないか」を選ぶよりも、「私の家族がおかしいのではないか」を選ぶ方がより安全に思えるかもしれない。では、どうしてそのように選択してしまうかを次に取り上げよう。

 

 僕たちは生きていく上で、人生を続けていく上で、数多くの不安を抱えながら生きているものである。この不安は、一部では自分の安心感とか安全保障感などによって相殺されるが、一部では抑圧されていなければならない。この抑圧は自我の防衛機制によるものである。安心感や防衛によって、僕たちは四六時中不安に襲われるということなく、日常生活を営むことができるわけだ。

 不安に襲われるということは、この安心感が低下したことを示すと同時に、防衛が緩んだ状態として考えることも可能である。後者の方が重要である。防衛機制によって安心感も保つことができるからである。自我が耐えられないほどの不安、安心感を極度に低下させてしまうほどの不安から、防衛機制は主体を守ってくれているのである。

 もし、一冊の本を読んで激しく不安に襲われたとすれば、それはあなたの防衛機制が緩んでしまっていることを示している。防衛機制が一部破綻しているとみなしてもいい。

 そこで、防衛機制が破綻していて、これ以上の不安に晒されてしまうことを回避しなければならなくなっているとすれば、より不安を喚起しないものを選択することになるだろう。自分に問題があると認識することは、家族に問題があると認識するよりも、はるかに主体にとって不安を掻き立てられるだろうと僕は思うわけだ。こうして、防衛機制の弱った自我はより不安の少ない方を選択する可能性が高くなるわけである。

 

 防衛が破綻するのは二重拘束状況によるものだけであるかと問われると、他の要因もそこには関係していると思う。

 本書第4章の冒頭を引用したけれど、あの記述もまたそのような作用を及ぼすだろうと僕は思っている。つまり、反論の余地を与えないほどの「決めつけ」である。買い物依存症はそういう人格があり、それは機能不全家族に育ったからだという決めつけである。それが数ある理論のうちの一つに過ぎないと思わせないような書きぶりである。

 第4章の以下の文章もそうした「決めつけ」のような文章で満ち溢れている。この「決めつけ」に対して、読者としてはそれを否定することは新たな不安を喚起することになるかもしれない。つまり「それは違う」と表明する選択肢が読者に与えられないということになれば、それ自体が不安を催させると思うのであり、それに反対声明を出すことはさらに憚られてしまうだろうと僕は思うのだ。こうして、読者は一方的に著者の見解に賛成せざるを得なくなる、そういう境地に立たされることになってしまうのではなかろうかと僕は思うのだ。

 

 ものすごく話が飛躍するのだけれど、こういうやり方はカルト教団の勧誘乃至は説教に似ていると僕は感じている。信者の不安を掻き立て、防衛機制を破壊しにかかるのだ。不安に襲われている信者に教団は「敵」を用意するのだ。以後、信者が不安になっても、それはその「敵」のせいであると教示することができるのだ。達成不能な目標を信者に課しておいて、信者がその目標を達成できなくても、それはその信者が悪いのではない、「敵」が悪いのだとすることが可能になるわけだ。「敵」を設定すれば、どんなことでもすり替えることができるのだ。

 上述の「敵」を「親」とか「家族」に置き換えてみれば僕のいわんとしているところも分かってもらえるだろうか。

 

 さて、第4章についてはこれくらいにしておこう。その内容とか説は僕は問わないことにした。著者個人の見解としてそれは認めようと思うのだ。ただ、その記述に関しては難点があるように思ったので、そのことを中心にして述べた。

 細々したことを書くのも煩雑になるので、要点だけを以下に記しておく。

 著者は概念規定を疎かにするので、読者は心的投影で補わなければならなくなる。そのため読者はいやが上にも本文の中に自分自身を見いだしてしまう。これはすでに述べたとおりだ。

 僕から見て、著者の論述はあまりに決定論的であり、ドグマ的であるという印象を受ける。特に「決めつけ」のように感じる部分もあり、これが二重拘束状況をもたらし、読者の防衛を壊しにかかる。さらに言えば、単純化した二元論に読者を導くと僕は感じている。

 著者にはどうも「主体」という観念に乏しいように思う。その他「発達」とか「自由」「目的」「意志」といった観念も乏しいように感じている。

 主体の観念が欠けているために、そこでは主体は別主体による被造物でしかなく、彼の行為は機械的な習慣に還元されてしまっている。僕はそれには賛成できない。つまり、本書で取り上げられている人たちはすべて機能不全家族によって作られた被造物であるという見解に僕は賛成できない。それは個人から主体を奪う思考である。

 不幸な子供時代を生きた人たちが現実にいることは僕も認めるのだけれど、この理論は下手をすると、その人たちから子供時代を耐え抜いたことの意味を喪失させてしまうかもしれない。これもまた一つの防衛破綻である。ジェニファーは本当に買い物依存症なのだろうか。彼女は高価なスーツに身を包むけれど、彼女にとってそれは必要なことである。彼女が生きていくために、仕事をしていくために必要な買い物をしているのであり、少なくともストレス解消のための買い物というイメージではない。そして、彼女が現在の地位についていることに、彼女の子供時代の経験が大いに役立っているのである。彼女にとってそれは不幸な経験であったとしても、その経験を彼女は生かしているのである。僕はそのように見るので、彼女の子供時代の経験を肯定したいのである。それを問題であると見なしてしまうと、彼女が子供時代を耐えた意味を失わせてしまうことになる。

 本章で述べられていることは、ダイナミクスであるよりもメカニズムであり、さらに言えばメカニズムであるよりもゲオメトリクスであると僕は感じている。あまりにも幾何学的で、図式的すぎる。

 本章を読む人の中には、母親からの手紙を読むラスコーリニコフと同じような心境に陥った人もいるだろうと僕は推測している。自分がしっかりしていないという読者にとっては、相当な脅威をもたらしているかもしれない。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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