3月3日(水):書架より~『買い物しすぎる女たち』を読む(2)
(第3章・あなたのストレスと買い物習慣を診断する)
本章ではいくつかの自己診断チェックリストが収められている。本書の欠点は概念規定がきちんとなされていないところにある僕は思っているのだけれど、曖昧な概念のままそれの自己診断を読者はすることになる。
まず、最初に「あなたは買い物依存か買い物依存症か」というチェックがある。買い物依存と買い物依存症とのそれぞれの概念規定が曖昧なのに、どちらであるかというチェックをするわけだ。
ここまで「買い物依存症」についての本だと僕は思っていたのだけれど、「買い物依存症」と「買い物依存」とは別概念であることをいきなり知らされてしまう。「買い物依存」は「問題のある購買行動」という意味なのだろうか、それとも、それはまたさらに別概念なのだろうか。意味不明である。
概念規定とは、ここまでの範囲は「買い物依存」に入るけれど、これを超えると「買い物依存症」になるといった定義並びに範疇に関することである。そこを疎かにするものだから読んでいて訳が分からなくなる。
さて、このチェックリストは14の質問項目に「はい」か「いいえ」かで答えるというものだ。しかも3つにイエスと答えたら買い物依存症と判断されてしまうというテストなので、うっかりイエスと答えるわけにもいかない、とんでもないチェックリストである。
項目の数と回答の数とが非常にアンバランスである。5個中3個にイエスと答えたら、というのだったらわかる。10個中7個にイエスと答えたらというのも頷ける。14個中3個というのは、これはチェックとしては不公正である。基準となる回答数(つまりイエスと答えた場合の数)を減らせば減らすほど、そのテストによってそうと診断されてしまう人の数が増えてしまうわけだ。
一体、このチェックリストはどのようにして作成されたものだろうか。きちんとした学術書であれば、どういう人たちを被験者としているか、どういう方法で作成したかなどが記されているものであるが、本書ではその辺りの経緯はまったく示されていない。
では、この14項目の内容であるが、非常に曖昧なものがいくつもある。例えば、項目11「週に六時間以上買い物に時間を費やす」というものはどうだろうか。家庭の専業主婦(主夫)ならそれくらいあるのではないかという気がしてくる。この文章が非常に曖昧で幅広い意味合いを含んでしまうために、これに該当する人がたくさん出てくるだろうと思う。家からお店までの往復や移動の時間を含めないとか、生活必需品を買う以外の買い物に費やす時間とか、質問項目の意味内容を限定する必要があると僕は思うのだ。
このような限定がなされていないとはどういうことを意味するか。それは妥当性が検討されていないということである。妥当性とは、テスト項目が測定する対象を適切に反映しているかどうかという尺度である。もし質問の意味合いが広すぎるということであれば、妥当性が低くなるので、質問の意味範囲をもっと限定しようと質問を修正することになる。そういうプロセスが踏まれていないということである。
項目の妥当性についてもう少し述べよう。非常に重要な部分であると僕は思うからである。例えば、「買い物依存症」の人のほとんどがその項目にイエスと答えるということであれば、その項目は買い物依存症をチェックするのに妥当な項目であるとみなされることになる。逆にあまりイエスと答えなかった質問は妥当性が低いということになる。
しかし、次のことも検討しなければならないだけに話は単純ではない。確かに、買い物依存症の大部分がその項目にイエスと答えているけれど、買い物依存症以外の人も大部分がその項目にイエスと答えているということになれば、その項目はやはり妥当性を欠くということになる。買い物依存症者だけがそれにイエスと答え、それ以外の人はそれにイエスと答えないという質問にしていかなければならなくなるわけだ。
その他にも、この14問の中にはそういうことを普通に経験するかもしれないといったものがいくつもある。いちいち挙げるのは控えるけれど、1,2,3、などは買い物依存以外の人でも経験することであるかもしれないし、9~13も人は時にはそういうことを経験するかもしれない類のものである。買い物依存をチェックするには妥当性が乏しい感じがしている。
しかも、14項目中、買い物依存症に該当する項目が10もあるのだからさらに公平を欠く検査である。言い換えると、買い物依存症に当てはまってしまう確率が高い検査である。せめて同じ項目数にしなければならない。買い物依存に該当するものが10、買い物依存症に該当するものも10というように。
本音を言えばそれでもまだ片手落ちである。異常な行動だけをチェックしてはいけないと思うのだ。つまり、正常な買い物行動リストも載せなければならない。どの程度正常の範囲にあって、どの程度異常な方に傾いているかということが分かるようにしなければ公平なテストとは言えなくなる。従って、正常10項目、買い物依存10項目、買い物依存症10項目と、各種のリストを揃える必要があると思う。それぞれのテストをやって初めて自分がどこに位置付けられているかが判断できる。
要するに、この自己診断は「〇×式」の安易なものなのである。自分に該当する(しかもそのようにできている)から自分は買い物依存症だと自己判断してしまう危険性の高いテストである。その根底にある思考は単純化された二元論である。。
続いて、「買い方セルフチェック」のリストが挙げられている。10の項目からなるが、これは判定手続きが示されていない。つまり、この検査をやっても、その結果をどのように評価判断したらいいかについて、読者にはなんら手がかりが与えられていないのである。
このリストをどのように活用するかは読者に一任されているようだ。さらには先ほどの「買い物依存か買い物依存症か」のチェックリストとどのように併用したらいいのかも不明である。
そして、いささか唐突にビッキーの事例が挿入される。この事例に関しては後に取り上げよう。
事例提示の後、ストレスへと観点が移行する。二種のストレスチェックリストが収録されている。
さて、僕はストレスで説明されている説は信じないことにしている。ストレスと言ってしまえばどんなことでも説明できるからである。むしろ、ストレスによる説明は何も説明していないに等しいのだ。
それはそれとして、ここでのストレスチェックリストは、単にあなたはここ数年で大きなストレスを経験しました、あなたは高ストレス状態にありますと言っているだけのものである。もう少し言えば、あなたのストレス感覚、ストレス認識は正しいですよと言っているだけのものである。それが買い物という行動とどのようにつながっているのかは、少なくとも本章では、取り上げられていない。
ところで、依存症の人がストレスで依存行為をすると言う時、それは人生上の大きな出来事ばかりではなく、日常の些細なストレスがその行為を引き起こしていることだってけっこうあると僕は思っている。従って、ストレスという概念を使用するなら、その行為をする前にどういうストレスが発生していたと思うかを問わなければならないのではないかと思う。従って、買い物依存症者はその依存行為に走る前にこのようなストレス体験をしていたというリストを用いなければならないわけである。誰もがそれをストレスと体験するようなリストはあまり役に立たないのではないかと思う次第である。
さて、ビッキーの事例にも触れておこう。僕は人さまのカウンセリングにケチをつけるつもりはないけれど、このカウンセリング、かなり一方的だなという印象を受ける。日本とアメリカの国民性の違いもあるのかもしれないけれど。
おかしな話であるが、ここではクライアントがカウンセラーを受容しているのである。そして、カウンセラーが話題の方向を決めている部分がけっこうある。僕からすると、幾分、カウンセラーの解釈が強すぎる感じを受けている。これが初回ではなく、もっと回数を重ねた後の面接であればそれでもいいのだけれど、どうも初回からカウンセラーの解釈が先走っている感じがしてしまう。
ところで、このビッキーという35歳の女性は自分の買い物癖に対して問題意識を抱えている。初回はそれだけを取り上げてもいいと思う。カウンセラーは二言目にはビッキーの家族のことを話してと方向転換している。理論の逆転移というやつをカウンセラーはやらかしているように僕には見える。ビッキーは自分の問題を意識していて、これまでにかなり傷ついたりした経験をしている。言いたいこともたくさんあったのではないかと思うのであるが、この面接でそれを十分言うことができただろうかと僕は疑問に思う。
もちろん、面接のやり取りを活字で読むわけなので、そこでは多くのことが欠落してしまっているだろうということは否めない。実際の面接はもっと穏やかな感じだったのかもしれない。活字だけで読むと、どうもこのカウンセラーは冷たい人というか厳しい人のように思えてしまう。適切な言葉が浮かんでこなくて困っているのだけれど、ドグマ的な感じを僕は受けているということだ。
本章は、僕の要約では、下手にイエスと答えてしまうと買い物依存症と診断されるチェックリストをやらされ、誰もがストレスとして経験する人生上の出来事を経験しているから高ストレス状態にあるとみなされ、そうして読者をある方向へ意図的に誘導するものである。著者がビッキーの面接でやったのと同じことを読者に対して仕向けているのである。僕はそういう章とみなしている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)