3月3日(水):書架より~『買い物しすぎる女たち』を読む(1)
僕は本書を実にくだらん本だと思っている。くだらんくらいならまだしも、けっこうな弊害があるようにも思うので、実に厄介な本だ。
昔、一度読んで、「もうええわ」という気になったのを思い出す。以後、何かの役に立つかと思い書架に並べておいたが、少なくとも15年間はまったく本書の出番はなかった。要するに何の役にも立ってくれなかったという本である。
今回、処分するつもりでいるので、その前にもう一度だけ目を通しておこうと思い、読んでみる。ついでに僕の思うところのものを書いて残しておこう。
著者、訳者のまえがきに続いて、本書の第1章が始まる。
(第1章・「買い物依存症」の時代)
本書の一番の欠点は概念規定がきちんとなされていないということである。「買い物依存者とは」という節が設けられてはいるものの、そこの記述は主観的体験に基づきすぎている。もう少し客観的な臨床像なり尺度なりが記載されていないと買い物依存症の輪郭がはっきりしないように思う。
そして、不明瞭な部分が多くあればあるほど、読み手の心的内容物がそこに投影されて埋め合されてしまうことになる。もしくは読み手の拡大解釈を許容してしまうと思う。
そうならないためにも定義をきちんとしなければならないのだが、その手順をすっ飛ばして論述を進めているように僕には思えるのだ。これが本書における一番の問題点である。
パットの事例を経て、一応定義らしきものが挙げられている。買い物依存症者とはということで5つの行動特性が記述されており、その背景にある理由として二点が挙げられている。ここで注目したいことは、この行動特性も理由も、どちらも家族ということには触れられていないのである。つまり家族に関する事柄は買い物依存症の絶対条件ではないわけだ。
アシュレの事例を挟んで、社会ならびにその歴史の観点から女性と買い物について述べる。僕には「?」と思えるところもあるのだけれど、著者の見解としてそのまま読んだ。
買い物依存があるとすれば、それはある程度までは時代や社会が生み出したものであると思う。本書のこの部分を読めばよりそういう気がしている。大量生産、大量消費の社会、資本主義経済社会に過剰に適応した人たちのイメージが僕には浮かんでくる。子どもでさえ消費者としてターゲットにされる時代である。
こういう子供たちが子供時代を持っていないという考え方に僕は反対するつもりもない。生まれた時から大人たちの経済社会構造の中に組み込まれ、消費者として位置付けられてしまっているからである。僕もそうであった。
本章の最後に幾分意味不明の言葉が載せられているので抜粋しよう。
「自分の感情と向き合わない最上の方法は、何も感じないことだ。だから空しさを忘れるために買い物に行く。そして、空しさを埋めるのに必要な額の二倍ものお金を使い、借金を余計にする」
問題はこの抜粋の最初の部分である。自分の感情と向き合わないための最上の方法が何も感じなくなることであるという説である。僕はこれは眉唾ものだという気がしてならない。
感情鈍麻ないしは無感動といった状態は、自分の感情に向き合わないためになされるのではなく、どちらかと言うと、自分の感情に晒され過ぎたために陥ってしまう状態であると僕は考えている。
それはちょうど辛いものを食べすぎて味覚がバカになるようなものである。著者の説だと辛いものを食べる前に味覚をバカにするというように聞こえてしまうのだ。どうも僕にはしっくりこない説だ。
著者になんの恨みもないんだけれど、僕はこの著者が本当に依存症というものを理解しているかどうか疑問にも思えてくるのだ。例えば、不安をごまかすために依存症者は依存行為をするというのは正しい一面を含んでいる。では、依存症者が依存行為をしている間は不安から免れているかと言うと、実はそうでもないのである。僕は自分の体験からも、また幾人かのクライアントの話を伺っても、そう信じている。その依存行為をしている間もずっと不安なのである。不安は持続しているのである。ただ、断続的に、その継続する不安にわずかの裂け目が生まれるだけなのである。
従って、買い物依存症(というものがあるとして)の人は、買い物をしている間、ずっと自分の感情と向き合っている(不安を体験し続けている)のだ。もし、不安を除去できているのであれば、その時点で依存行為が終了するはずである。不安が持続しているから依存行為が継続しているのだと僕は考えている。
だから僕は依存行為の終え方に注目するのである。どんなふうにしてその行為が終結するのか、そこで当人にどういうことが起きているのかを知りたいと思うのである。確かに常にそうであるとは言えないのだけれど、その行為が終了する時には、その人は必要な安全感を取り戻している場合もあり得るからである。
その行為の後で当人が経験する後悔や自責感情は二の次であって、そんなものをいくら分析しても何も得るところはないと考えている。
さて、僕のクライアントでも買い物依存症のような人がいることはいる。強迫的浪費と僕は見ている。そして、もう一つ厄介な人たちがいるのだ。「躁的浪費」と僕は呼んでいるが、本書ではこのような人のことは触れられていないようである。
僕の個人的な分類だけれど、浪費家(あるいは買い物依存)にはいくつかのタイプがあって、先述の強迫的と躁的のほかに、アパシー的な人たちもあるし、循環的(これは躁鬱的ということだ)な人たちもある。概念規定をきちんとした方がいいと僕が言うのもこれに基づく。どういう人たちを本書では扱うのかを読者が明確にできないと、読者はなんでもこのカテゴリーに含めてしまうということが発生しかねないように思う。
では、第2章を読んでいこう。
(第2章・買い物の誘惑と魔力)
本章では、買い物する側ではなく、買い物させる側のことが記述されている。ショッピングモールもスーパーマーケットも、あるいはテレフォンショッピングや特売広告など、そこには買わせようという仕掛けに満ちている。
正直に言って、本章は一番余計な部分であるかもしれない。でも、僕は本書の中で一番普通に且つ面白く読むことができたのが本章である。買い物依存症に関する本なのに、買い物依存症にほとんど関係のない章が面白いというのだから本末転倒だ。
どうして一番余分な章だと考えているかと言うと、売る側のことが問題になっているのではないからである。売る側がどんな販売戦略をしようと、そのこと自体は買い物依存にはほとんど関係がないのである。
事実、第4章で、買い物依存症は人格の問題であり、機能不全家族の問題であると飛躍した怪しい理論が展開されているのであるが、それを見ても、販売する側のことは一切問題にしていないことが窺われるのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)