<テーマ172>H氏の事例(4)
(172―1)H氏は何を体験していたか
(172―2)4回目の面接より
(172―3)放ったらかしにされた子供
(172―4)カウンセリングが不服
(172―1)H氏は何を体験していたか
3回目の面接の抜粋より、H氏のコンプレックスに触れたと思われる箇所をもう一度みてみましょう。
私「あなたが手を上げている時、奥さんはどうされていましたか」
H「泣き叫んだり、パニックになったりする」
私「そういう奥さんの姿を見てどんな感じがしますか」
H「向こうが家事をさぼるからそうなっているんです」
H氏の言葉をそのまま受け入れると、暴力が生じている場面において、彼には妻が見えてはいるようです。でも、その時の妻を見てどんな感じがするかという、自分の感情を問いかけられると、彼は答えられないでいるのが分かります。
もし、「被害者」を見て、何も感じないのであれば、「何も感じません」と彼は言うでしょう。でも、話題を変えているということ、その問いを避けているということは、彼はやはり何らかの感情を体験しているのではないかと思われるのです。
その感情が彼には見えないのか、あるいは見たくないのかは現段階では不明であります。そして、その時の自分の感情に対して、「向こうがそんなことをするからだ」という対処をH氏はしています。これはどういうことでしょうか。
私が考えるところでは、彼は「この感情に対しては、私には責任がないのだ」ということを述べたいのだと思うのです。「被害者」と「被害者」の感情を、彼は自分から切り離さなければならないのでした。
このことを理解するために、暴力の主体ではなく、傍観者の立場で考えてみましょう。恐らく、その方がより理解しやすくなると思うからです。実際、私の問いはH氏に傍観者の立場に立たせるものでもありました。
今、あなたの目の前に二人の人間の暴力行為が展開されています。一人は暴力をふるう「加害者」です。他方は暴力を振るわれている「被害者」です。「被害者」がボコボコに殴られているという場面をあなたは見ています。
さて、あなたはどういう感情になると、「殴られているのは被害者に責があるからだ」という結論に行き着くでしょうか。その結論へと導くのはどのような感情だと思われるでしょうか。
「その暴力に関わりたくない」というのは、確かにそのような感情の一つでしょう。また、「被害者」の痛みが伝わりすぎたりしても、そのような結論に行き着くかもしれません。そうして「被害者」や「暴力」から距離を取る方が安全だと感じられるでしょう。
「無力感」とか「恐怖感」という感情も大きいだろうと思います。目の前で暴力行為が行われている。なんとかしたいけど、怖くて近寄れないとなると、その恐怖感を処理するために「被害者が殴られるようなことをしたからだ」といって片づけたくなるかもしれません。
つまり、H氏は暴力の場面に対して、かなりの感情的な動揺を経験していると考えられるのです。彼を揺り動かすその感情に対して、彼はガードしているのです。彼自身がそれを意識しているかどうかはまだ定かではありません。
続く4回目の面接で、彼は子供時代、父親から殴られる母親を何度も見てきたという話をH氏はします。きっと、その頃から引き続いて彼に生じていることが、妻との関係においても生じているのだろうと思われるのです。なぜ、それが継続しているのかについてはいろいろ考えられるのですが、彼がそれを意識していないということが大きな理由だと考えています。
次にH氏の4回目の面接に入ることにします。
(172―2)4回目の面接より
4回目の面接はさらに二週間後でした。
自分の行為や感情に目を向けてもらおうという働きかけは、H氏をしてかなり不快にさせていたようです。前回と大差のない面接でしたが、一部においては前進も見られます。また、いくつか抜粋してみましょう。
私「自分自身や自分のしたことに関しては、なかなか見ることが難しいようですね」(1)
H「なぜ、そんなことを言われるのか分からない」(2)
H氏のこの発言は少し前進しています。自分自身を見るということの違和感を表現されているからであります。
私「奥さんがどうだったとか、奥さんが何をしたとかいう話の方がしやすいのですね」(3)
H「向こうが私を怒らせるのです」(4)
私「そして、一旦怒ったら、それが長引いてしまうようですね」(5)
H「結婚した時の約束を破っているから。家事をやるっていうから専業主婦を認めたのに」(6)
ここでもH氏に向けた問いが妻の話になっています。
この後、H氏の両親のことが話題に上がってきます。H氏によると、父親もよく母親に手を上げてきたと言います。
私「お母さんが暴力を振るわれるところを見て来たんですね」(7)
H「しょっちゅうでした」(8)
私「その場面をあなたはどんな思いで見ていたんでしょうね」(9)
H「分からない。ただ、母は『何をされても耐えるのが私の役目だから』とよく言っていた」(10)
ここには、H氏が自分のDVにおいて、なぜ自分自身の行為に目を向けることができないのかのヒントがあるように思いました。どんな思いでその光景を見ていたのか、H氏自身、そこを見ることができていないからです。「分からない」というのは、忘却しているのではなく、H氏が混乱していたことを思わせるのです。
つまり、DVの現場を見ると、自分が何を見ているのか、何を感じているのか、混乱してしまって分からないということです。彼が自分のDVにおいても同じ混乱を体験している可能性もあるわけです。そして、彼が万一「被害者」だったとしても、やはり同じように混乱してしまうことでしょう。事実、妻が洗脳されていると彼が主張する時、彼は混乱していただろうと思います。
私「お母さんはそう言ったんですね。どういうことがあって、お母さんはあなたにそれを言ったのですか」(11)
H「確か、父に殴られた後、母を慰めようとして行ったときに、母がそう言ったのだと思う」(12)
ここには子供の頃のH氏を混乱させる要素が認められます。詳しく話してくれたわけではありませんが、私が思うに、H氏は母親を心配していたのでしょう。母を可哀そうに思い、慰めに行ったのでしょう。どういう言葉をH氏がかけたのかは分かりませんが、例えば「お母さん、大丈夫?」というような言葉をかけたとしましょう。それに対して、母親は「何をされても耐えるのが私の役目だから」と答えているとします。この状況で、母親からこの言葉を受け取った時、子供ならどういう反応をしてしまうでしょう。「分からない」というH氏の言葉は真実その通りだと思います。
母親にそういう意志はなかったかもしれません。しかし、H氏は心配しているのです。そして、恐らく、父が母を殴ることは悪いことだと感じています。それに対して、母は「それが私の役目だから」と返しているわけです。H氏にとっては、自分の心配の方が間違っていて、父が母を殴ることは悪いことではなく、それを悪いことだと感じている自分の方が間違っているのではないかという混乱に陥るのではないでしょうか。こうして、彼は自分の目にしているものと、それに対しての自分の思考や感情が、結び付けられないという体験をしたのかもしれません。
(172―3)放ったらかしにされた子供
前項にて、H氏も放ったらかしにされた子供だったことがあるのではないかと考察しました。彼ははっきりとは述べていません。もしくは思い出せないのかもしれません。しかしながら、上述の抜粋から、彼にそういう経験があった可能性が窺われるのです。
父親が母親を殴る。その場面において、両親には子供のH氏のことが見えていなかっただろうと思います。彼はそこで放ったらかしにされるのです。そして、仲裁に入ることもできないことが、彼をして孤立感や無力感を高めてしまったことでしょう。さらに、母親に慰めの言葉をかけようとしたときの母親の言葉によって、彼の感情や意図が度外視されてしまい、放ったらかしにされているという感情がさらに強まったかもしれません。
私は信じているのですが、彼はこうした感情を今でもやはり覚えていて、時々それが刺激されてしまうのでしょう。ただ、彼はその辺りの事柄に関しては意識化がなされていませんでした。
(172―4)カウンセリングが不服
さて、4回目の面接を終え、私は例によって相手の弁護士に提出する報告書を作成しました。
出来上がった報告書を読んで、H氏の顔が曇ります。不服そうな感じでした。
「何か良くないところがありますか」と私は尋ねます。
彼は、「カウンセリングの報告としてはこれでいいけれど、納得できない感じがある」と述べました。
私は、その報告書は妻側の弁護士に充てているものであること、妻側にH氏の今の取り組みを見てもらうことが大切なのだということを伝えました。あまり適切ではなかったと反省する次第です。
H氏はもっと直接的に自分を弁護して欲しかったのだと思います。それは5回目の面接時に明らかになります。彼は自分が弁護されている、守られている感じがしていなかったのでしょう。
今回話された子供時代の光景もまた、自分が守られていないという感覚を甦らせ、その感覚を高めたことに貢献してしまっているかもしれません。
H氏が子供時代に体験したことは本当に不幸なことだったと思います。それが今のDVや「暴力」の問題に対して、直接的にまたは間接的に、影響を及ぼしているのは確かなようです。
だから、H氏としては自分だけが悪いのではないという主張をしたくなるのも当然なのです。ただ、それを妻側に提示するかどうかは話が別であると私は考えます。H氏の子供時代の経験は妻には関係がないものであり、また、妻には責任もない事柄なのです。それを提示しても、妻側からは却下されるのがオチだろうと思うのです。
それは例えて言えば、レイプなどの性犯罪の犯人が「自分は母親の愛情を知らないがために、愛情に飢えて女性を襲った」などと弁明するようなものです。そうした事情は犯人を治療・更生しようとする人たちには受け入れられても、被害者にだけは決して受け入れられることがないものなのです。それは被害者には何の益にもならず、むしろ被害者の感情を逆なですることになるだけなのです。
これらのことはカウンセリングに対してのH氏の抵抗感も強めてしまう結果となりました。キャンセルや変更が相継いで、5回目の面接はこれから一か月半後に実現したのでした。
本項ではここで筆を置き、次項にて5回目の面接について述べていくことにします。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)