<#007-34>臨床日誌~心身不一如
仏教の世界には「心身一如」という思想がある。これは字の通り、心と身体は一つの如くといった意味だ。なので、体を鍛えることは精神を鍛えることにもなるという考えになる。滝に打たれることが精神修養になるというわけだ。
僕はそうは思わないんだけれど、それは後で述べよう。この心身一如という思想は、一見すると納得できるように思われるかもしれない。でも、その一方で、この思想はいわゆる「しごき」とか「体罰」といった諸行為へと個人を導いてしまうかもしれないとも僕は思う。実際、そうだ。相手の歪んだ根性を叩き直そうとする人がまずやらかすのが「体罰」だと僕は信じている。こういう行為が生まれる背景に心身一如の思想が潜んでいると僕は思うわけだ。
もし、心身一如が正しいのであれば、常に身体を鍛えているアスリートは強い精神の持ち主だということになる。身体が整っていることは精神も整っていることになる。でも、現実はどうだろうか。アスリートの人でも悪に手を染めた人はたくさんいるだろう。
それと同じように、身体を鍛えているわけでもない人たち、例えば文化人などと呼ばれる人たちはどうだろうか。心身一如の思想に従えば、この人たちは精神の方は鍛練していることになるので、同時に身体も鍛練されていることになるかと思う。でも、実際は身体的に虚弱であったり、不健康な人たちもおられるだろうと思う。
上述のことは偏見と受け取られそうだ。必ずしも偏見のつもりで言っているのではなく、身体を鍛えることと精神を鍛えることとの同一視に疑問を呈しているだけであることをお断りしておこう。
僕たち日本人には心身一如の思想がけっこう根深くあるかもしれない。ダイエットやエステの広告などでも「心も体もきれいに」などという文句を見かけることがある。エステやダイエットで身体がきれいになれば、そのまま心もきれいになるかのような言い回しだ。広告文句にイチャモンをつける気もないんだけれど、僕はそれは正しくないと考えている。仮に太っている人であっても、精神が健全である人はたくさんおられるものである。
心身一如の思想に従えば、身体を整えることのできない人、あるいはそうみなされそうな人は精神的にも脆弱であるとか、混乱している(心を整えることができない)などと評価されてしまうかもしれない。こういうところからけったいな差別が生まれるのかもしれない。太っているからといって人間的に劣っているわけではないのに、そうみなされてしまうかもしれない。
やはり心と体は別なのだ。そう考えた方が安全である。心身一如の思想は、その本来の由来は別としても、体罰や差別の温床となる。こういう思想はできるだけ排除したいものだと僕は思う。
クライアントたちもそれをしてしまう。自分の心を強くしようと望んで彼らが何をするかと言うと、まず身体を鍛えるのである。筋トレなんかを始めたりするわけだ。もちろん身体の健康のために筋トレをするのはけっこうなことであるが、それがそのまま心を鍛えることにはならないのである。
そいう身体的なトレーニングと並んで多いのが、自分を律しようとする行為である。例えば自分に関することはすべて外的に規定しようとする人がある。一日のスケジュールでも細部に至るまで組んでしまう人がある。見ようによっては、これも身体的トレーニングの延長にある行為のようにも見える。腹筋を何回、背筋を何回、腕立て伏せ何回、スクワット何回、これを3セットするというトレーニングメニューを組むのと同じような感じで一日のスケジュールを組むわけだ。
これも、規則正しい生活を送るという目的のためにスケジュールを組むのであればけっこうなことである。ただ、それがそのまま心を鍛えることにはならないかもしれないということは繰り返し申し上げておこうと思う。
クライアントに限らず、一般の人もそこは間違えているのである。そう僕は思うのだ。心を鍛えようと欲するなら、いろんな状況に自分を置いていくことである。ジムに籠って筋トレするよりも、いろんな場に出る方がよほど鍛練になる。いろんな場に出て、いろんな人に会うことだ。そこで限りなく不満を経験することだ。
不満を経験するというのは、自分が突き放される体験である。環境や他者が自分の思っているのとは違っていた時、その環境や他者から自分は切り離され、突き放されたような体験となるわけだ。そして、その都度、その体験から立ち直っていくことが本当の精神鍛練というものではないかと僕は思う。
従って、心を鍛えるというのは、身体を鍛えること以上の負荷を自身に負うことになる。そこは覚悟した方がいいと僕は思う。生半可な気持ではできないことだと僕は思っている。
ちなみに、よく「メンタルが弱いから」などという人を僕はみかける。結論から言えば、メンタルが弱いのは気持が生半可だからである。凹むのは誰だって凹むのである。その凹むことを恐れず、凹んでも立ち直っていく経験を積んでいこうという覚悟が欠如しているだけなんだと僕は思っている。もともとメンタルが弱い人なんて存在しないとさえ僕は思っているのである。
それに、本当にメンタルが弱かったら、その人は3歳まで生きられなかっただろうと思う。3歳というのは、まあ、比喩としてそう言っているだけなんだけれど、要するに、本当にメンタルが弱かったら、その人は幼児期や児童期さえ通過できなかっただろうと僕は思うわけだ。
メンタルが弱いと言う人の「メンタルの弱さ」というのは、半分以上(量的に測定できるものではないけれど)は思い込みなのだと僕は信じている。自分はそういう人間なんだと信じているに過ぎない。そして、メンタルの強い人は自分みたいに傷つかないだろうと信じていたりするのであるが、これも間違いなのである。メンタルが強いというような人でも、「打たれる」ことは多々あるものだ。
もう一つついでに言えば、メンタルが強い人が「打たれ強い」のは、打たれることに対するダメージ耐性が強いのではなく、それ以外のものが打たれたところを補強するのだと僕は考えている。だから、内面が豊かな人ほど打たれ強いと僕は考えているわけだ。一部がダメージを受けても、その他の箇所がそれを補うからである。その補強するものが人一倍あるということになるからである。
従って、心を鍛えるもう一つの道は、自身の内面を豊かにしていくことである。でも、このことは、結局のところ、さまざまな場面に身を置いてみるということとつながるのであるが。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)