<#007-33>臨床日誌~意欲低下
人間は生きている限り、常に一定というわけにはいかず、調子の波があるものだ。調子が良い時もあれば、あまり良くない時もあるものだ。人間が常に「過程」に置かれている限り、波というものはあるものだと思う。
あることをやろうと思っても、やる気が起きないとか億劫だと感じたりとか、そういう体験をすることもある。それらは「意欲低下」と言えるが、こういう体験はどの人もするものであると私は思う。
意欲低下が周期的に訪れるという人もあれば、微弱な低下がずっと継続するといった感じの人もある。低下の程度も人によってさまざまである。
やる気が起きないとしても、自分を奮い立たせてできる場合もある。億劫だと感じられながらもそれなりにできたといった場合もあるだろう。これらは比較的健常なレベルであると私は考えている。
これが重くなると意志の力でも自分を奮い立たせてもできないという状態に陥る。そうなると無気力とかニヒリズムといった様相を帯びることになるだろう。
そこまで重くなっても、まだましな場合では、日常の営みや仕事・学業などを機械的にこなすこともあるようだ。要するに感情抜きで作業をこなしているわけだ。こういう例においては、当人が意欲低下をきたしているということが外部からは分からない。普通にこなしているので、周囲の人はその人に問題があるなどとはみなさないわけだ。
それ以上重くなると、それこそ何もできないという状態になるかと思う。ただ、僕の場合、こういう状態に陥った人とお会いすることはないので、このような人たちについては僕には分からないことが多い。
意欲低下に関する訴えは多くのクライアントさんから伺う。人それぞれの状態があり、また、それの表現もさまざまである。意欲低下をきたす要因に関しても人さまざまである。
単純に疲労を訴える人もけっこうある。疲れたので何もする気が起きないというわけだ。この疲労は肉体的なものから精神的なものまでさまざまであり、また、現実の疲労からそうでないものまでさまざまである。現実の疲労ではない疲労というのは、例えば、当人がわずかの不調や意欲低下を過剰に評価しているなどといった例が挙げられるだろうか。
心配事を抱えていたり、緊張感が持続しているといった感じの人もある。あることに意識が奪われていたり、それが緊張感をもたらしていたりして、何もする気が起きないというわけだ。
動機づけの低さを訴える人もある。何もする気が起きないというのではなく、それをやる意味が分からないとか、何のためにするのか分からないので、やる気が起きないというふうに訴えるものだ。僕の印象では、こういう訴えをする人の中には強迫的な傾向の見られる人が多いようにも思われる。意味や目的が完全に理解できていないとする気が起きないという感じの人がおられるからである。だから、強迫的傾向における穿鑿癖、疑問癖の一環であるように思われることがあるわけだ。
直接的に表現されることはないけれど、展望のなさを訴える人もある。つまり、それをすることで何が変わるというわけでもないし、望ましい何かが得られるわけでもない、だからやる気が起きないというわけだ。抑うつ傾向の強い人からはこのような内容のことを伺うことがけっこうあるように思う。
感情体験の喪失をきたしている感じの人もある。こういう人は過度なまでに知的な印象を与える人であることが多いようだ。本当は意欲低下を起こしているのに、損得勘定で動いたり、義務感だけでかろうじてこなしているといった感じの人であり、そこには喜びとか楽しみといった感情が欠落していて、辛いとか苦しいといった感情でさえ見られないのだ。
その他、自分が何もしない方が世の中は上手くいくなどと信じているような人もある。実際、このような人はそういう体験を積んできていることが多いようだ。自分が何かをすることによって問題が起きたりとか、周囲を困らせたりとか、そういう体験を蓄積してきている例がある。しばしば家族成員においては「問題あり」とみなされていることが多く、家族のスケープゴートのような存在になっている例もある。
また、上記と似ているのだけど、自分が何もしない方が苦しまなくて済むと信じているような人もある。このような人も、そういう信念を持つようになるまでその種の体験を蓄積していることがあるようだ。日々の生活の中で徐々にそう信じていくのだろう。結果として、何もしない方が悪いことが起きないわけであり、その代わり良いことも起きないということになるようだ。良い体験をすることよりも、悪い体験を回避したい欲求が強いのだろう。
さて、意欲の低下とは一体どういうことなのだろう。
意欲が低下するとは、自己と世界との関わり方が変化することであると僕は考えている。世界は私が働きかける場ではなくなるのだ。それは、世界から断絶し、切り離される体験でもあるので、自己は世界において孤立することになると思う。意欲低下に陥るとはそういう体験様式ではないかと僕は思うわけだ。
主体が世界から孤立し、隔絶すればするほど、世界に対して働きかけようとは思わなくなるだろう。つまり、意欲低下がさらに引き起こされるわけであり、こうして一つの悪循環が生まれるように僕は思う。
私たちがある行為をするということは、外的世界、環境世界に働きかけていることでもあり、それによって世界を動かし、世界を変えていると言ってもいいと思う。同時に、一つの行為は自分自身の何かも動かしているのであり、いわば自分自身にも働きかけ、自分を変えることにつながっていると考えることができる。
従って、意欲低下は自己と世界との関わり方の変化だけではなく、主体の自己への関わり方の変化も伴っていると僕は考えている。そういう人においては、自分との関わり方も変わっているということである。
外部の環境世界に対しての意欲低下は、同時に自己に対しても意欲低下しているわけであるので、こういう人は自分自身に対しても無気力である。こういう人は自ら治療を求めたりしないだろうし、自分を良くしようとも欲しないかもしれない。そうして自己との関わりが希薄になるほど、自分を変えようと欲することがなくなるだろうと私は思う。
しばしば、そういう人は「様子見」をすると僕は思う。何もする気が起きなくても、そのうち意欲が回復するだろうと信じ、様子を見ることをするわけだ。それで意欲が回復することもあるとは思うのだけど、こうした様子見は自己との関わりの希薄さを示す一端であるかもしれないとも僕は思う。
いずれにしても、意欲低下というのは「心の病」の初期段階としては頻繁に見られるものである。昔は「神経衰弱」などと呼ばれていた一群の諸症状に含まれていたものである。つまり、意欲低下には診断名が付されていたというわけだ。
だから、やる気が起きないといった意欲低下をあまり軽々しく考えてはいけないのである。そのまま放置していくとさらに悪化することだってある。というのは、その意欲低下が、単独の意欲低下ではなく、より大きな症状の前段階となっている可能性も払拭できないからである。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)