2月23日(火):ミステリバカにクスリなし~『塙侯爵一家』(横溝正史)
「塙(ばん)侯爵一家」
著者の昭和7年の作品。文庫で150ページほどの中編。物語は霧深いロンドンから始まる。
ロンドンに留学に来ていた売れない貧乏画家である鷲見(すみ)信之助は、恋人の島崎摩耶子からの仕送りも途絶え、毎晩前後不覚になるまで酔いつぶれている。畔沢(くろさわ)大佐は信之助を見て一言漏らす。「似ている」と。大佐は自分の陰謀に信之助を利用する。
大佐は信之助の身柄を預かり、彼を塙侯爵の子である安道へと仕立て上げる。信之助は塙安道となって日本に帰国する。安道に扮した信之助は大佐の陰謀に加担するが、やがて大佐の命令に従わなくなる。その頃、塙侯爵が何者かに銃殺される事件が発生する。さらに、安道が偽物であると嗅ぎ出した女が暗躍し始める。
本作は本格的な謎解きのミステリというよりも、スリラーやサスペンスに属するものである。150ページほどの中編であるが、次から次へと場面が展開していくところ、読んでいて心地いいほどであった。
昭和7年というと、著者が専業作家になった年である。それだけにかなりの意気込みが込められていたのだろう。当時連載された雑誌にもそのことが紹介されており、尚且つ、本作はかなりの好評で迎えられたようである。面白いことは面白いが、後の金田一耕助作品の方を先に知っていると、本作はそれほどでもないように感じられてしまう。
読んでいて不思議に思うのは、信之助が塙一家の者に見破られないのはどうしてだろうかということだ。容貌が瓜二つなのはいいとして、パーソナリティなどには違いがあるはずである。一緒に暮らした家族が見抜けないとはどういうことなのかと思う。しかしながら、この疑問は作者のトリックの一環である。トリックが明かされるとそりゃそうだと納得するわけだ。
しかしながら、信之助=安道の人間入れ替えというか一人二役というか、あるいは二人一役と言おうか、このトリックが成立するためには中盤で島崎摩耶子を登場させない方が良かったと思う。ここでトリックに齟齬を来たすように僕は思った。少なくとも摩耶子と信之助=安道が会わないようにした方がよろしかっただろう。塙一族は気づかなくとも、摩耶子は気づいたかもしれないからである。
先述のように、大正10年のデビューから昭和7年まで雑誌の編集長なんかをやりながらの兼業作家だった著者が、本格的な専業作家になった年の作品である。作品からは作者の熱意というか意気込みが伝わってくるような感じがする。その情熱だけで読ませる作品とも言えそうである。戦後の作品群に比べると見劣りがする部分もないわけではないけれど、大佐の陰謀と謎の女の暗躍、それに信之助=安道の裏切りなどが錯綜してそれなりに面白い作品であると思う。
僕の唯我独断的評価は3つ星半だ。トリックの齟齬がなければ4つ星を進呈したかった。
本書にはもう一篇中編が収録されている。そちらも取り上げよう。
「孔雀夫人」
その日、幸せな結婚をした有為子だったが、新婚旅行先の熱海で夫の俊吉が殺人事件の容疑で拘留されてしまう。有為子はすでに紫の羽織を着た不気味な女の存在に気づいていたが、殺されたのはその女だという。有為子は先輩である圭子に助けを求める。圭子の夫で新聞記者でもある慎介が調査に乗り出す。
昭和12年発表の作品。女性誌に連載されただけあって、有為子や恵子など女性の活躍も目立つ。また、殺人に使用された凶器がまったく無視されていたり、被害者の相貌をどうやって崩したのか明かされていなかったりと、何かと不明な個所もあるが、きっと読者が女性であるということを意識したのだろう。あまりむごたらしい場面が出てこないようにと作者が気遣ったのかもしれない。
物語はスピード感のある展開で、犯人捜しよりも夫の無罪をいかに証明するかに焦点が置かれているように思う。その中で焦燥したり翻弄されたり、危険な目に陥ったりする女性が描かれている。
トリックは著者お得意の一人二役、二人一役が巧みに使われている。殺人現場に赴いて、二人一役トリックを暴く場面などはなかなかスリリングでもあった。
また、夫の無罪が証明されても最後まで気の抜けない展開が待っている。孔雀夫人の執念が最後まで描かれる。
さて、新婚旅行が熱海であるとか時代を感じさせるところもあるし、助けを求めた先輩の夫が新聞記者であるという設定も出来過ぎと言えば言えるのだけれど、本作はそれなりに面白い。でも、まあ、唯我独断的読書評としては3つ星半くらいかな。
<テキスト>
『塙侯爵一家』(横溝正史 著)-角川文庫
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)