7月22日(月):唯我独断的読書評~『蜘蛛・ミイラの花嫁』(1)
某アンソロジーで短編「蜘蛛」を読み、こんな怖い作品を書くハンス・ハインツ・エーヴェルスという作家に興味を覚えた。できればその他の作品も読んでみたいと思っていた矢先に古書店で本書を見つけ、即買いしてしまった。
ところが、その後がイカン。いつか読もうと思ってズルズルと日が過ぎていき、今日まで未読のまま書架に放置されていたのである。本は読まれなければ浮かばれない。本に対して申し訳ない思いで改めて本書を紐解く。本書には8編の短編小説が収録されている。それぞれ読んでいこう。
「蜘蛛」
ホテルの一室で金曜日の夕方になると泊り客が首つり自殺をする事件が3週続けて発生した。最初は商人であり、二人目は芸人であり、三人目はこの事件を捜査するためにこの部屋に泊まった警官だった。事件は瞬く間に広まり、この部屋に泊まろうという客はいなくなる。
でも、誰も泊まりたがらないこの部屋に医学生リシャールは敢えて宿泊した。勉学のためであり、経済的理由のためであり、そして功名心のためであった。作品は彼の日記という体裁をとる。
最初は何事もなく過ぎるが、金曜日に近づくと読者の方も緊張感が高まる。でも、ここがにくい演出なんだけれど、最初の金曜日は無事に過ぎるのである。その後からクラリモンドの存在を明かすなんて、上手く作ったものだ。
クラリモンドとは、リシャールが勝手にそう名付けたのだが、この部屋の向かいの部屋に住む女性だった。彼はだんだんクラリモンドと親しくなる。道路越しに彼らは「ゲーム」をする。いつしか彼はクラリモンドに魅了されていく。この過程がじわじわと恐怖感を高めていくのであるが、クラリモンドが彼の心を奪い、彼を支配し、最初は彼女が彼の模倣をしているものと思い込んでいたのが、実は彼の方が彼女の模倣をしていたことに彼は気づいていく。彼は、必死になってクラリモンドの影響から逃れようとするも、もはやそれから抜け出すことができなくなっている自分を見出してしまう。
なんとも怖い作品だと思った。結末まで分かっていながら再読しても、やはり怖いものは怖い。魔性に魅入られて、それに侵略というか浸食されていく感じがして、そこが怖いと思うのだな。
「死んだユダヤ人」
決闘の場面に立ち会うことになった語り手の回想譚。ブランデンブルグ出身の学生とユダヤ人ゼーリッヒとの決闘だ。両者に武器が手渡される。ゼーリッヒは何度も決闘の中止を申し出たが、周囲がそれを許さない。3度懇願するも、拒否され、決闘は施行された。学生の発した銃弾はユダヤ人の命を奪う。
彼らは死んだユダヤ人の遺体を馬車に乗せ、病院へと運ぶが、最初の病院では拒絶され、少し遠方の病院まで運ぶこととなった。その道中、死んだユダヤ人の遺体を挟んで、彼らが常軌を逸していくさまが印象的だ。
彼らは道中、カードをする。死んだユダヤ人も生きているのと同じようにカードを持たせ、彼が勝ったら彼に掛け金を渡す。飲めといって死んだユダヤ人に酒を飲ませる。あたかも彼の死を否認したいが如くである。そんな矢先、死んだはずの彼が口をきいて、周囲を仰天させる。
なんとも異常だ。彼らが決闘をする。ユダヤ人の方は決闘の中止を申し出ても聞き入れない。あくまでも決闘を実行させる。彼らはこの決闘を楽しんでいるのだ。見世物を楽しむかのように殺し合いを眺めている。その後に良心の呵責を感じるのか、彼の死を否認するかのような行動を取っていく一方で、死者に対する冒涜を平然と行う。彼らのその精神が僕には怖い。
「乳を飲ませた女」
ドイツ人探検家が探検中に病気になる。病気に苦しむ彼はミルクを欲したのだが、同行者たちにはどうしてもそれが手に入らない。樹皮からとったものも、山羊からとったものも、探検家は受け付けない。彼を救ったのは原住民の女だった。女が探検家に乳を飲ませたのである。探検家はそれで一命をとりとめたのだが、女は死ぬことになった。彼女の民族ではそれは死罪にあたる罪であったからである。
魔性の女に魅了される「蜘蛛」とは違って、命がけで見知らぬ男に身をささげて奉仕した女が登場する。なんとも対照的と思われるのだが、このドイツ人探検家にとって、この女性は生涯忘れることのできない人になった。彼の心に刻印を残したわけであり、これはこれで別の形の魅了であるかもしれない。
「アルラウネと運転手」
アルラウネを愛した男たちの一人に運転手のラスペがいる。彼女はラスペを運転手としてだけでなく、無謀な乗馬の供にしたりもする。運転手として仕事をしている時も、彼女は彼に無謀な運転を強いる。ラスペはいつでも彼女の言いなりになってしまう。
「お前、あいつは気違いだよ、きっとそうだよ、あいつはどうしようもない困った性質(たち)で、自分でしたいことは何でもやらせなきゃ気がすまないんだよ、こっちがどれだけさからっても、またそれがつまらんことだとようく分かっていてもだよ。今日なんか…」。ラスペはこんなことを妻に向かってぼやくのであるが、これが果たして彼の本心であるかどうか僕には疑問だ。
ラスペの妻はそんな夫を見かねて、別の運転手の口を捜して、アルラウネとは縁を切らせようとする。彼は妻の提案を受け入れ、そのように事が運ぶのだが、彼の最後の勤務日に、アルラウネがドライブに行こうと誘ってきた。ラスペにとってここでの最後の仕事となるドライブに彼らは出発するのだが。
魔性の女に魅入られるというテーマが見られる。ここでは、ラスペはアルラウネを愛した男の一人に数え入れられているのだけれど、これが愛と言えるのかどうか。そうであるとすれば、彼の愛とは対象に飲み込まれる愛ということになろうか。口唇期固着の愛と言えるだろうか。
さて、本書の前半4話をここまで読んできた。どれも印象に残る作品だ。
けっこう残酷な場面が多い。「蜘蛛」におけるクラリモンドも、「死んだユダヤ人」における決闘立ち合い者たちも、またアルラウネにしてもそうだ。残酷なことを強いていて、当人はそれを楽しんでいる感じがあり、それがいっそう残酷でさえある。
愛と言えば愛と言えるのかもしれない。「蜘蛛」にしろ、アルラウネにしろ、そこには女に対しての愛が男の方に芽生えていると言えるのかもしれない。すでに述べたように、この愛は相手に飲み込まれ、自己を喪失するというか自己を相手に明け渡すような愛であり、あまりにも自己を無力化させるような愛であるように感じられる。未熟な愛であると同時に、愛とはそういうものであると作者が主張しているような印象も僕は受ける。そして、愛とは悲劇をもたらすものでさえあるのだと訴えているかのように僕には思えてくる。
では、項を改めて後半4話を読んでいこう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)