2月22日:五輪ボランティアは戻らなくてよろしい

2月22日(月):五輪ボランティアは戻らなくてよろしい

 

 緊急事態宣言が早く解除されて人の動きが戻ることを僕は願っている。この宣言、感染者の拡大を防止する目的があるのと、もう一つ、逼迫する医療を助けようという目的がある。前者は容認できても、後者はどうも僕の中で抵抗感がある。医療を救うために僕たちが悲鳴を上げているという感じがしてならないのだ。優先順位の下の方に僕たちがいるような気がしてならなくなってくる。劣位の立場に置かれたような気持になってくる。

 

 オリンピックなんかさっさと見切りをつけて感染対策一本に絞った方がよろしいかと僕は思うのである。アスリートの方々には申し訳ないと思うが、オリンピックにそんなに照準を合わせなくてもいいと僕は思っている。オリンピックはもはやその精神が忘却されているように思うので、正当なオリンピックならまだしも、異端のオリンピックならやらん方がましだと思うのである。そういう大会に出るアスリートたちも気の毒だ。

 

 オリンピックと言えば、新会長の橋本聖子さんがボランティアに戻ってきてほしいと訴えていたな。ボランティアを辞退した人たちに呼びかけているのだ。もちろん戻る戻らないは個人の自由である。どちらを選択しても構わないことではある。でも、個人的には一度辞退した人は戻らない方がいいと思っている。戻ったら戻ったでその人たちが誹謗中傷されるかもしれない。そういうものに晒されて欲しくないと思うのだ。

 ふと思うのだけれど、これをボランティアと言うのだろうか。僕のイメージでは困窮者や貧困者などの弱者の立場に立たされた人たちに対して、基本は有志でなされる無償援助である。弱者のために働くのであって強者のためではないはずである。

 もう一つ、ボランティア精神には相互扶助の観念がある。自分が助けられたので助け返すとか、いつか自分が困窮した時に助けてもらえるために先に助けておくとか、そういう助け合いの精神に則っているものだ。確か、そういうのをどこかで読んだことがある。

 オリンピックのボランティアは上記の二つを満たしているだろうか。誰のために働くのだろうか、そしてそれがどのように相互扶助になるのだろうか。僕は疑問を覚える。

 無償で働くことそのものはボランティアとは言わないのである。それは隷属に等しい。奴隷の強制労働をボランティアとは言わないだろう。オリンピックのボランティアも、奴隷とまでは言わないけれど、搾取されていることに変わりはないかもしれない。僕はそんな気がしている。

 

 そもそもの最初は「復興五輪」だった。東日本大震災の復興の証明となるはずだった。それが人類がコロナに打ち勝ったことの証明となる五輪にいつの間にやら様変わりしてしまっているのだ。それもおかしい。

 しかもコンパクトな五輪を目指すなんて言っていたのだ。7000万円でやると言っていたのが、いつしか3兆円規模の一大イベントと化してしまっているのだ。

 コロナがなくて、復興五輪をそのまま謳っていても、僕はやはりそのお金を復興に回すべきだ、即刻中止すべきだなんてことを言っていただろうと思う。

 それよりも、開催のためにそれだけの規模のお金を費やして、当日現地で働く人たちには無報酬って、どういうことかと言いたくなる。ボランティアは搾取されるだけの人間か。せめて日当なり時間給なりを支給するべきである。

 

 医療の救済のために我慢を強いられるのはまだ分からなくもない。それは何とか耐えようという気持ちにもなる。不本意ではあってもだ。しかし、オリンピックのための我慢は我慢できない。

 幸いなことに、人類がコロナに打ち勝った証として全豪オープンが開催されている。東京オリンピックはもう何も証明するものがないのだ。

 ボランティアも戻らなくていいのだ。そもそも無観客での開催となったらそんなに人員も要らないのではないかと思う。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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