<#014-13>廃人か、自殺か、新生か
(廃人)
ギャンブルであれ、アルコールであれ、その他、薬物であれ、ネットゲームであれ、買い物であれ、依存症の行き着く先の一つは「廃人」であります。
ただし、依存症の結果として「廃人」になるのではなく、「廃人」の結果として依存症があると私は考えています。私の考えを述べるためには「廃人」とはどういう人たちであるかを述べる必要があります。
「廃人」というのは、言葉がキツイかもしれませんが、もっとも苦しまない生き方をしている人たちであると私は考えています。あらゆる社会的責務や信用から見放され、あらゆる人間関係のしがらみや紐帯も失っている人たちだと私は思います。もっと言えば、その人たちは自分自身からも放逐されているのかもしれません。富とか権力とか、その他のさまざまな欲求からも、通常なら価値が置かれるであろうあらゆる事柄からも、すべてから孤立し、すべてを手放しているような人たちなのです。私は「廃人」と呼ばれる人をそのように理解しています。
依存症者は、依存症者として生きている時、すでに「廃人」を生き始めていると私は考えています。彼がすでに「廃人」であるが故に、彼は依存症になることができているのです。私にはそのように見えるのです。
私の言うことはキツイと感じられることと思います。しかし、誰をも誹謗中傷する意図は私にはありません。これは繰り返し申し上げなければなりません。そうでないと誤解を招きかねないからです。
私がこんなことを言うのは、依存症者は依存対象から決別すること(当事者はそれだけを願う)よりも、廃人としての生き方(彼らはこちらには気づかない)から決別しなければならないからです。私はそう考えています。従って、仮にギャンブル依存者がギャンブルをしなくなったとしても、その人の生が廃人としての生き方のままであれば、何も変わっていないに等しいのです。一方、ギャンブル者が廃人としての生を放棄できれば、その人がギャンブルをしようと、彼はもはやギャンブル依存症者でなくなっていると私は考えています。
ギャンブル依存の問題でカウンセリングを受けに来たクライアントたちは、自分がギャンブル依存であることは認めていても、自分が廃人の生き方をしているということには気づいていないし、認めないことも多いのです。そのため、彼らの「治療」はやがて行き詰まることになるのです。ギャンブルのために自分がダメになったと最後まで信じているからです。自分がダメになったからギャンブルにのめりこんだことを受け入れないのです。最初に「悪く」なったのは当人自身なのです。
(自殺)
また、「廃人」であれ、生きていける人はまだましであります。依存症者の生が自殺で幕を閉じることも珍しいことではありません。
ある人が話してくれました。パチンコ屋のトイレなんかで自殺する人も多いと。その人の言うところでは、そんなところで自殺をするなんて、よっぽどパチンコ屋に恨みがあったのだろうと。
この人は依存症というものを(ついでに言えば心的退行ということも)ご存知ないのです。その自殺者がパチンコ屋で自殺をするのは、それだけパチンコが好きだったからなのです。自分の死に場所にそこを選ぶほど、この人はパチンコが好きだったのです。自分が最後に一体となる場所にそこを選んでいるのです。これが依存症というものだと私は思うのです。それはアルコール依存症者が酒樽の中で死にたいとか、酒を飲んだまま死ねたらいいと望むのと同じであります。
少し話が脱線しましたが、死に場所がどこであろうと、依存症者が自殺で人生を終えることは稀ではないのです。
私も何人かのギャンブル依存のクライアントから自殺に関するエピソードを聞いたことがあります。不謹慎な言い方ですが、彼が自殺すれば、喜ぶ人も多いことでしょうし、悔しがる人もきっと多いことでしょう。悲しんでくれる人は少ないかもしれません。
ギャンブル問題の場合では、決まって金銭の問題があります。そう言い切っていいと私は考えています。大抵のギャンブル依存者は借金をしているのです。それは金融機関から始まり、身内、友人知人にまで広がるのです。借金ならまだしも、使い込み、着服、横領と呼べるような行為も見られることもあります。
彼が死ねば、貸した金が返ってこないということで悔しがる人もあるでしょうし、もはや彼の借金の申し出に煩わされることがなくなるということで嬉しがる人もあるでしょう。
依存症者は多くの人に迷惑と不幸をもたらしてしまうものだと私は思うのです。どんな種類の依存症であれ、もっとも迷惑するのはその周囲の人たちであります。当人自身は苦しんでいないこともけっこう多いのです。依存症者自身は周囲の反応を時に冷たいものとして捉えるのですが、本当は彼のために周囲がどれだけ我慢しているか、そこが彼自身には見えないのだと思います。
あるギャンブル依存者は破産し、多くの身内から借金してなんとか生活しています。しかし、本当は彼らのお金なのに、この人はあたかもお小遣いを貰ったかのように、せっかく親切心から貸してくれた彼らのお金を湯水の如くに使い果たすのです。当然、彼は返済不能に陥ります。それでも身内の方々は返済開始の時期を遅らせてくれたり、あるいは月々の返済額を減らして返済期間を延長してくれたりと、何かと対策を立ててくれます。彼は、彼らの行為に感謝していると口では言うのですが、本当には分かっていないのだと思います。それが分かっていれば彼はギャンブル依存なんかにはならなかったでしょう。
こうしてこの人は返済不能になり、さらにもはや誰も彼を援助してくれる人がいなくなり、孤立無援のまま、重い負債を抱えることになるのです。その挙句に自殺があるのだと私は思います。
(新生)
廃人と自殺、それ以外のもう一つの道は「新生」であります。これは「再生」とは少し違うのです。もう一度生き直すことではなく、新たに生き直すという意味であります。
これは私の断酒会なんかの経験に基づいている見解なのですが、断酒はしているけれど、新たに生き直している人のなんと少ないことかと感じました。私はあらためて学びました、酒を一滴も飲まないアルコール依存者が存在するということを。
きっと、同じことがギャンブル依存でも言えるでしょう。ギャンブルを一切しないギャンブル依存者が存在することでしょう。その当人は自分はギャンブル問題を解決したと信じているかもしれませんが、私から見ると、それは錯覚であります。ギャンブルをしなくなっても、生き方がギャンブル時代のままであるという人も、きっと少なくないと私は思うからであります。
ちなみに、私のカウンセリングを受けたギャンブル依存のクライアントたちで、「新生」にたどり着けた人は1割にも満たないのです。ギャンブルをしなくなったという人は現れても、9割以上が依然としてギャンブル依存の生き方をそのまま送っているのです。つまり、「新生」はもっとも望ましい道であるけれど、それだけ苦難の多い道でもあるのです。
依存症者の行く末は、廃人か自殺か新生かということを綴ってきました。どれを選ぶかは、各々の依存症者の自由であります。
廃人や自殺は、一般の人が思っているほど、苦しいことではないかもしれません。ただし、その生や死に価値があるかどうかは不明であります。
新生は、価値が高いとは思いますが、これを達成するには生半可な気持ちでは不可能であります。相当な努力も要することでしょう。依存症者はこの苦難の多い道を回避したがるものだと私は思います。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)