#014-14>ギャンブル依存の治療論(1) 

 

 少し「治療」についても述べておくことにします。ここで言う「治療」とはカウンセリングのことです。 

 

(生活と経済的維持) 

 ギャンブル依存の「治療」というと、いきなりギャンブル問題を取り上げて話し合うと思われる方もいらっしゃると思います。ところがそうではなく、現実には、彼らの生活の建て直しということ、特に経済的なやりくりをどうにかするというところから始めなければならないのです。 

 カウンセリングを受けに来る時点で、彼らはすでに破産していることもあったり、経済的に首が回らなくなっていたりするのです。カウンセリングを継続していくにしても、その料金を今後ともコンスタントに支払えるかどうかも覚束ないのです。 

 つまり、治療と生活の確保が先に取り組まれなければならないわけです。ギャンブル問題に取り組むのはその後のことになるのであります。 

 そもそもの初めからコンスタントに継続する意思がないという人もあります。一回受けてみて何か有益なアイデアでも得られたらそれでいいなどと考えるのです。これは、結局のところ、ギャンブルで「当たり」が出るのを期待するのと同じ心理だと私は思います。そうなると、この一回の「治療」は、その人にとっては、ギャンブルの延長でしかないのです。 

 また、大半のギャンブル依存者は、ギャンブルや金銭に関する事柄と同じように、「治療」に対しても無計画であるという印象を私は受けています。突発的に「治療」を求める人や衝動に駆られて駆け込んできたという人も中にはおられるのです。 

 料金のことも含めて、ギャンブル依存者がコンスタントに「治療」を受けることができるかどうかは当てにならないのです。そのため、コンスタントに継続できるかどうかの計画を練るというところから始めなければならなくなるわけです。もし、それがその場限りの「治療」であるなら、それはギャンブルの延長でしかないので、つまり、それは「反治療的」であると私は考えていますので、「治療的」であるためには継続の道を模索しなければならないわけであります。 

 今は料金のことに絞りましょう。実際、ギャンブル問題で来られたクライアントたちの大半は正規の料金を支払うことができないと訴えるのです。それでも継続して受けたいということであれば、私は料金を値引かなければならないのです。これは当然ながら本末転倒の話であります。料金を支払えるようになること、それができる計画が先にあってから人は「治療」を受けるものだからです。 

 ところが、こちらは善意から料金を割り引いたけど、それを裏切る人もあるのです。これをされるので私はギャンブル依存者を受け入れたくないのです。一例を挙げると、月に4回受けるクライアント(つまり24000円の料金を要する)を半額の12000円に割り引きました。一方でこの人は出勤時と昼休憩と帰宅時の缶コーヒータイムが唯一の楽しみだと言います。お分かりになるでしょうか。一日400円節約すれば、一ヶ月で12000円になるのです。缶コーヒーが150円くらいでしょうか、それが一日三本です。おまけに彼は喫煙します。タバコを一日に一箱買うと言います。合わせると1000円近くに達します。彼が、この一日1000円の出費を600円に抑えるだけで私のところの料金が捻出できるのです。私も小遣いを0円にしなさいとは要求しないつもりです。でも、肝心な点は、彼が一日のお小遣いのうちの400円をどこかで浮かせるだけで、治療費はきちんと支払えるのです。それをしないで、治療費の割引を求めてくるわけであります。  

ちなみに、これこそギャンブル者の生き方なのです。この人は自分のために他人が苦しめばいいというギャンブル世界の鉄則に生き続けているのです。そして、この人自身は支払いのために努力すること、苦しいことや不便を耐え忍ぶことから逃げているのです。 

 もっとひどい場合には、料金を割り引いてあげているのに、相変わらずパチンコで浪費続けているという人もありました。正規の料金の何倍もの金額をパチンコで浪費しているのであります。もはや「治療」なんてこの人には意味がないのです。私から見ると立派な裏切り行為なのです。正直に申し上げてよければ、努力する意志がないなら、「治療」を断念してくれた方が私としてはありがたいのです。これ以上、私はその人による損失を経験しなくても済むからです。 

 そういう苦い経験もあり、ギャンブル問題に取り組むよりも先に、経済的にやっていけるように考えていくこと、一定の生活を維持し、規定の料金が支払えるようになることが肝心であると私は考えるようになりました。 

 しかし、そういう考えでやっていくと、今度は別の問題も生まれたのでした。3年近く継続したあるギャンブル依存者ですが、ギャンブル問題を取り上げることができるようになったのは3年目に入ってからでした。最初の2年は生活の再建ということにもっぱら費やされたのでした。そして、この人の「治療」は大部分が生活の再建で終わり、彼自身は相変わらずパチンコに精を出しているという結末を迎えたのでした。 

 「ギャンブル依存お断り」のページで、ギャンブル依存を受け入れる条件として、3年続ける費用対策をしておくことを挙げたのは上記のような経験に基づいています。最初の2年はギャンブル問題に手をつけることができない可能性だってあるからです。場合によっては、それは2年以上となるかもしれません。 

 

(目標の共有) 

 さて、こうしてギャンブル問題に取り組めるようになると、まず、「ギャンブルをしない」ということが目標の一つになります。そして、私はそのように指示します。彼らはお金を何とかして工面しようとするのですが、水を注ぐ前に水漏れを防がなければならないからです。ギャンブルをしないことによって、お金の流出を防がなければならないのです。 

 もし、それでギャンブルが止められるなら「治療」なんて必要ないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。これに関しては後ほど取り上げることにします。 

 ギャンブルを止めるといっても、それはあくまでも目標の一つであり、しかも二次的な目標であります。ただ、これはギャンブル依存者の当初の目標とも一致するので、つまりお互いにとって共通の目標となるので、この目標が共同作業を推し進めていく力となるのです。この目標を共有するのはそのためであります。 

 ギャンブル依存者はギャンブルを止めることができればいいと考えています。何かを止めるといった消極的な目標は挫折する率が高いのですが、それでも私たちはそれを目標の一つとして設定します。すべて上記の理由のためであります。共通の目標は、クライアントの動機づけを高め、維持していくことにもつながり、共同作業を進めていく原動力となるからであります。 

 

(現状からの超越) 

 そうして彼がギャンブルをしなくなったとしましょう。この時点で終結すると、彼にとっては成功体験となるのでしょう。当初の目標を達成したということになるのでしょう。でも、私にとって、これは失敗事例に加えざるを得ないのです。 

 これを図にしましょう。 

 

(図1) 

 

 

この図では、一つの軸があります。これはギャンブルという軸で、一方の端にはギャンブルを「する」が、他方の端には「しない」があります。ギャンブル依存者はどの人もこの軸上のどこかに位置していることになり、右端の「しない」に辿り着ければそれでいいと彼らは考えるのです。この右端が彼らにとってゴールになるということです。 

 当然、これは非常に危ういゴールであります。ギャンブルをしなくなったとしても、その人がギャンブルという軸上にある限り、その人はギャンブル問題に囚われ続けることになるからです。「する」側に位置していた時には「ギャンブルを止めよう、止めよう」と思い続けていたことが、「しない」側に位置すると「ギャンブルをまたやってしまうのではないか」と恐れ続けることに変わるだけなのです。内容が変わっただけで、相変わらず自分の中で闘争し続けなければならなくなるのです。根本的には何も変わっていないのです。 

 私たちはここから離れることを目指さなければなりません。それを図にすると(図2)のようになるでしょう。 

 

(図2) 

 

 ここにはもう一本の軸が縦方向に生まれています。つまり、図では青色の線で示されている次元です。この軸の向かう先は「新生」ということです。新たな生であります。 

 ギャンブルをしなくなったとしても、つまり赤線の右端に到着したとしても、その人は今までと同じ次元に立っていることになります。ここからそれを超越していくことが望まれることであると私は考えています。 

 

 ここで分量の関係で次項へ引き継ぎます。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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