<#014-09>「自分のために他人が負ければいい」
私はギャンブルを一切しないので、ギャンブルに凝る人の気持ちが今一つ理解できていないのです。なぜ、人はギャンブルをするのか、そして、どうしてそれにどっぷりと浸かってしまう人が現れるのか、未だに疑問なのですが、私なりに考えたことを述べていこうと思います。
以前のサイトでもこのタイトルで私の見解を展開したことがあるのですが、私の考えは、一部は以前と変わらないままだろうし、一部はより発展し、一部は訂正されているだろうと思います。
以前のものを読まれた方にとっては、同じことの繰り返しと映ずる個所もあると思うのですが、その点はご容赦願いたく思います。
おそらくいろいろなことを書いていくと思います。それらはすべて私がお会いしたギャンブル者(依存者も愛好者も含めて)との経験に基づいています。ここに書かれていることのすべてがギャンブル依存者に該当するとは限りません。ある人には当てはまるものが、他の人には当てはまらないということも生じるでしょう。
さて、ギャンブルという行為の根底にあるものは何でしょうか。その基礎となっている思想とはどのようなものでしょうか。パチンコであれ、競馬であれ、非合法の賭博であれ、ありとあらゆるギャンブルに一貫して流れる思想とはどのようなものでしょうか。
それは「自分のために他の連中が負けてくれたらいい」という思想であると私は考えています。「自分が助かるために他が苦しめばいい」という思想なのです。
実際、ギャンブル依存のクライアントたちの話を伺っていると、随所にこの思想が顔を出すのです。一人のギャンブル依存の周囲に、どれだけその人のことで失望し、悲嘆し、傷ついた人がいることでしょう。
彼らは他人の苦しみにはいたって無頓着であるように見えるのです。とにかく自分が助かること、それだけが彼を動かしているという場面もあるように私は感じています。
この思想は、言い換えると、一つの「利己主義」なのです。
彼らがギャンブルで勝った時には、「負ける奴が悪い」とか「負ける奴はアホだ」などという理屈を持ち出すのです。でも、自分が負けた時には「運が悪かった」とか「ツイてなかった」などと言うのです。「自分が悪い」とか「自分がアホだった」とは、なかなか彼らの口からは聞くことのない言葉だと思います。
彼らは負けるので、お金に困ります。金融会社から借ります。金融会社はそれが仕事なので、貸してくれるでしょう。でも、やがて金融会社から借りられなくなります。限度額まで借りてしまったり、審査が通らなかったりするためです。
彼らは友人に借りるようになります。友人は彼のために貸すでしょう。彼は「借りただけだ。返せば問題ない」などと言いますが、友人の立場に立てば、それは予定外の出費以外の何物でもないのです。彼は友人に出費を強制したわけですが、友人にとっては出費になっているということが彼には理解できないのだと私は思います。
やがて、友人も愛想が尽きるのです。そうなると彼は家族のお金に手を付けることになるのです。それができなければ勤め先の会社のお金に手を付けることもあるのです。
ある男性は妻のへそくりに手を付けてしまいました。そのへそくりは妻が将来の夢のために貯めていたものでした。彼はそれをこっそり持ち出して、そしてこっそり元に戻しておけばいいと考えていましたが、結果、元に戻すこともできなくなってしまったのでした。彼は妻のお金だけではなく、妻の夢をも蕩尽したのでした。
また、ギャンブルに耽溺していた一人の男性は、暴力を振るって妻の稼ぎを奪い取るのでした。ちなみに、この妻が私のクライアントでした。彼女は夫の暴力に耐えられず、離婚しました。元夫には所在を知らせないようにしていたのでしたが、元夫は成人して独立している息子の居場所を調べ、今度はこの息子にたかるようになったのでした。息子は、もしかすると父親からお金を奪われていたかもしれないのです。ただ、真相はどうであったかわかりません。この息子が自殺してしまったからです。
夜遅くに実家に行って、親のお金をこっそりくすねたという経験のある男性もいました。その翌日が金融機関への返済日だったのですが、手持ちのお金では返済額に足りなかったのでした。彼はその手持ちのお金を元手にパチンコ店に走ったのでしたが、結局、一文無しになってしまったのでした。それで考えた挙句、夜遅くに実家に行き、親のお金をくすねて、それを返済に充てたということでした。足りなくても、手持ちのお金だけでも返済しておけば、金融機関の風当たりもましになっていたでしょうに。
これらの行為は、やはり「利己主義」と呼べるのではないでしょうか。彼らを動かしているのは「自分が助かりたい」という感情であり、そのために「他人が苦しんでもいい」と見做しているのではないでしょうか。特にお金に関する場面で、彼らの「利己主義」が前面に出てくるように私は感じています。
彼らが「利己主義」であるためにギャンブルに親和性が持てるのか、ギャンブルに浸っているうちに「利己主義」に染め上げられてしまうのか、私には何とも分からないのですが、ギャンブルを止めたとしても、「利己主義」のまま生きているのであれば、この人はいつでもギャンブルに戻ってしまう危険があると私は考えています。
ある男性はパチンコを止めていました。パチンコを止めると、お小遣いが自由に使えるということが分かったと彼は言います。そして、休日には手土産を持って、友人やお世話になった人を訪ねるようにしていました。そういうことをしていないとパチンコの誘惑に負けそうだと彼は言います。
そこまではいいとしましょう。しかし、糖尿病を患っている先輩にチョコレートを手土産に持参したり、食餌療法中の知人にごっそりおやつを持っていくなど、有難迷惑なことを彼はするのです。なぜ、彼はそういうことをするのか、先輩が糖尿病を患っていることも、知人が食餌療法中であるということも、彼は知っているのにです。
彼は言います。「いや、喜んでもらえるかと思って」と。彼が「利己主義」のまま生きていることは明らかなのです。そこはパチンコに狂っていた時代と変わっていないのです。
また、毎日パチンコの誘惑と戦いながら、必死になってパチンコを自らに禁じている男性は、妻によりを戻そうという提案が却下されたことに憤慨していました。彼はパチンコに浪費していました。きちんとした収入があるのに、妻子は切り詰めた生活を送らなければならなくなっていました。ある時、妻が愛想を尽かして家出したのでした。彼は、自分はもうパチンコを止めているのだから戻って来いと訴えているのですが、それだけでなく、自分が苦労してパチンコを止めているのだから、妻が戻ってきて当然だと、傲慢にも、信じていたようでした。
彼は妻に分かってもらえないと嘆いていましたが、分かっていないのは自分の方だとは露とも疑っていなかったようでした。妻は彼のパチンコ癖で家出したのではなく、彼のことで傷ついたから家出をしたはずだと私には思われるのですが、彼にはそこがまったく見えていないようでした。
これらの例も、根底に「利己主義」が見られるように私には思われます。彼らには彼らの言い分があるとしても、その根本には、「自分が助かるため(受け入れられるため)」という目的があり、その目的のために「他人が苦しんでもいい」(または「他人の苦しみは理解できない」)という思考があると私は思うのです。
私の観点では、ギャンブルとは「自分が勝つために他人が負けてくれたらいい」という思想が根本にあると考えています。それは一つの「利己主義」であるということを述べてきました。私がギャンブルを好きになれないのはその根本思想の部分であります。
仮に、私がギャンブルして勝ったとします。賞品とか配当金を私は手にします。しかし、今私が手にしているもののために、どれだけの人が負けただろうかと、私だったら考えてしまうのです。負けた人の中には、今日の負けのために首をくくらなければならない人もあるかもしれません。そう思うと、勝って儲けたこと自体が罪悪のように思われてきてならないのです。ましてや、負けて首括った方が悪いとかアホだとか、そんなことを言えるほど私は冷血漢ではないと自負しています。
ギャンブル依存問題では、ギャンブルを止めるか止めないかということよりも、「利己主義」から脱却することが第一に目指されなければならないことかもしれないと、私はそのように考えています。その部分がそのままである限り、彼自身も彼の周囲の人たちも、苦しみが絶えないことだろうと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)