<#014-02>依存症問題に寄せて(2)
前項では、各種の依存症に共通して見られる諸要素を仮定してみました。そこでは4つの要素を取り上げました。①依存対象、②依存行為、③副次的行為、④変身であります。私は個人的にはこれらが依存症を構成している下位概念であると捉えており、中でも④「変身」が依存症問題の本質であると考えています。
これら4要素についてより詳しく見ていくことにします。
①依存対象は、その人にとっては一つの誘惑になるものであります。その対象はその人を引き付けるだけではなく、その人に迫って来る対象としても体験されているであろうと思われるのです。つまり、その人が対象に向かっていくだけでなく、対象の方からその人の心的領域に飛び込んでくるという一面もあるわけであります。
いずれにしても、この対象はその人の心を占めることになります。そこにその行為をしたいという欲求が生まれてきたりするのでありますが、これは「対象への誘惑」といった体験様式になると思います。
この誘惑に対して抵抗力が働く場合、この人は葛藤を経験することになります。誘惑への抵抗力が弱い場合、もしくは皆無である場合、この人は葛藤を経験することなく依存行為をするでしょう。また、依存行為を終えた後においても、抵抗力のある人は後悔や良心の呵責を体験すると思われるのですが、抵抗力の欠落している人の場合、そのような体験をあまりしないように私には思われるのであります。
誘惑への抵抗力ということについて述べておこうと思います。
誘惑に対して動じない人もあれば、些細な誘惑に流されてしまう人もあります。前者は誘惑への抵抗力が強く、後者はそれが弱いとみなすことができます。
つまり、誘惑への抵抗力には個人差があるわけであります。一般に誘惑への抵抗力が強い人は自己抑制的であり、それが弱い人ほど衝動的になると言えると思います。
誘惑への抵抗力は年齢とともに発達していく側面があります。ただ、この抵抗力は12歳~14歳くらいで固定化してしまうようであります(詳しくは中里至正著『道徳的行動の心理学』有斐閣選書参照)。
抵抗力そのものは14歳くらいで固定化するのでありますが、後は認知面で強化していく他はないように思われます。ただし、認知面での強化は、あくまでも抵抗力の補助となるものであると私は考えています。その意味では脆いものであります。
例えば、「パチンコをすると家族が悲しむ、彼らの悲しむ姿を見たくない」という認知面を強化したとしましょう。ここに、「少しくらいなら家族も許してくれるだろう」という別の認知が入り込んでしまうと、最初の認知が覆されてしまうことも生じるわけであります。だから認知面での補強には脆い一面があるわけであります。
従って、抵抗力が弱い場合、認知面で補強していくしかないのですが、この認知面での強化は絶やしてはいけないのであります。決して「もう大丈夫だ」と安心できる状態にはならないものと思ってほしいのであります。依存行為をしなくなっても、依存対象の誘惑に対しては抵抗していかなければならないのであり、一生、絶やさずに認知面の補強をし続けなければならなくなるわけであります。
一般に、依存症から回復したという人はこういう状態にあるのです。何十年も飲酒を断っていた人でも、誘惑への抵抗を、その認知面での補強を、日々強化し続けなければならないのであります。同じことはパチンコ依存から回復した人からも聞かれることなのであります。パチンコを打たなくなっても、パチンコの誘惑と戦い続けることになるのであります。これが依存症から回復した人の姿なのだと思っていただいて間違いはないと私は考えています。だから、依存症は完治しないなどと言われるわけであります。
次に②依存行為について詳しく見ていきます。
依存行為は依存症問題の中心となるものであります。依存症者はこれを問題視していることも多いのでありますが、その一方で、自分が依存症の範疇に入るとは信じていない人も多いと思います。依存症のレベルなのか、それとも趣味とか嗜好のレベルなのか、その辺りの境界は不鮮明であります。なかなか外的基準で境界線を設けることが難しいと私は感じています。この区別に関してはいずれ取り上げることになるでしょう。
依存症者は最初からその対象に依存しているわけではありません。パチンコでも、最初は気晴らしといった程度のところから始まっているのです。だから、それを続けているうちにどこかでそれにのめり込むようになるわけであります。初期の依存症の段階ではなかった時代の記憶があるので、自分は依存症者ではないと信じていたり、止めようと思えばいつでも止められるのだと思い込んでしまうのかもしれません。
私の個人的経験では依存症者には過去の一時点の憧憬があると思うのです。パチンコ依存者が「勝った時の快感が忘れられない」などとよく言うのも一つの憧憬であると思うのであります。過去の良かった時期、良かった体験を再体験したい気持が強いのかもしれません。そうして過去の何かを取り戻すという意味合いが依存行為には付きまとっているように私には思われるのであります。
従って、依存対象の誘惑に加えて、現在が受け入れ難くなればなるほど過去のその憧憬が意識の前面に浮かんできて、それも依存行為に主体を向かわせる一因となっているのかもしれません。実際、私がお会いした限りでは、パチンコ依存者は現在の現実を受け入れられないようなのであります。現在の状況、現在の現実の自分を受け入れることに困難を覚えている人が多いように私には思われるのです。
このように述べると依存行為は現実逃避のように映るかもしれません。パチンコ依存者はパチンコで現実逃避を図っているというふうに見えるかもしれません。実際、パチンコ依存者が自らそのように述べることもあります。確かに見ようによっては現実逃避のように見えるのですが、少しニュアンスが異なるように感じることが私にはあります。
現実から逃避するという感じよりも、現実と自己との間に生じている亀裂の埋め合わせとして依存行為があると感じられることが私にはあるのです。あくまでも私の個人的経験の範囲でありますが、そのように感じられる例があるのです。現実逃避としてではなく、現実への架け橋として依存行為があるように思われるわけであります。その人にとっては、依存行為が現在の現実と関わる一手段となっているわけであります。例えば苦しい生活を送っているパチンコ依存者が、普段は生活苦を否認して過ごしているのに、パチンコに負けて初めて自分の生活苦に向き合うことができるというような例であります。
従って、仮に現実逃避として依存行為があるとしても、依存行為は主体をして現実に直面させる契機になっているわけであり、直面するほど現在の現実の受け入れ難さが意識され、さらに依存行為を求めてしまうという悪循環が生じるのかもしれません。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)