2月15日(月):政治的パラノイア
オリンピック委員会の森委員長の後任を巡る問題で持ち切りだ。後任を任された川淵氏もお気の毒としか言いようがない。別に川淵氏は悪いことはしていないのであるが、引責辞任する会長が後任を指名するのはおかしいという批判によるもののようだ。それにしても、ここに至って後任選出には透明性をなどと謳っているのだからどうかしている。
誰を選ぶかの前に、どのように選ぶかがあり、その前にどのように透明性を打ち出すかという問題があるということなので、後任が選出されるまで相当な時間がかかりそうだ。
オリンピック開催まで半年を切っているのだけれど、実際は2か月を切っているのだ。悠長なこともやってられないだろう。それに選出が遅れれば遅れるほど、後任の負担は大きくなるだろうと思うので、悪循環が生まれるのではないかと思っている。時間がかかればかかるほど、後任を引き受けたくなくなるだろうと思うわけだ。
二階氏の発言は批判も多い。森会長が失言を撤回したのだからそれでいいじゃないかといった内容のものや、ボランティアを辞めるというのであれば新しいボランティアを募集するだけだといった内容のものなどのことであるが、僕も賛同はしない。でも、日程通りにオリンピックを開催することという観点に立てば正しい主張も含んでいるようにも思う。今さら会長を交代するよりも続投させる方がいいし、ボランティアがいないのであれば早急に募集した方がいいだろう。あくまでもその観点に立った場合にのみ正しい言い分が含まれているとは思う。ある意味では感情抜きで論理に徹している思考であるという感じがする。
まあ、いずれにせよ、僕はオリンピック反対派の人間だ。オリンピックがどうなろうとまったく興味がない。昨年の時点で日本は権利を返上しておくべきであったと思う。本来、延期という選択肢がないオリンピックである。開催か中止かのどちらかしか選べないのである。一年延期というのは前代未聞のことだ。
昨年の3月の時点で中止と決めていれば、2020年のオリンピック中止はコロナのせいだったと世界の人々は認めてくれるだろう。日本にも同情の眼が向けられることだろう。2021年の中止は日本のせいだったと世界の人々に認識されるだろうと思う。日本に批判の目が向けられることになるだろう。昨年の中止と今年の中止とではまったく性質が異なるわけだ。
それでもオリンピックは人類がコロナに打ち勝った証として開催しようとしているのだから尋常ではない。ほとんどパラノイアである。日本はそれだけすごいことをしたという復権妄想である。日本のトップがそんな有様であるとすれば、日本は相当恐ろしい国になっていくだろう。
いや、確かに政治家なんてものになろうとするなら、多少パラノイア的な人の方が相応しいと僕は思っているのだ。ただ、その妄想様思考の行き着く先がどこにあるかでその政治家の評価が分かれることになる。何が何でも国民を守るという誇大的な救済者妄想の持ち主であれば、世界が反対してでもオリンピック中止を実行するだろう。世界中の国々が「やれ」と言っても、国民を守るために断固として反対するだろう。
これからは国のトップに求められるのは、リーダーシップなんかではなく、それ以前に精神鑑定であるかもしれない。僕はそう思っているのだけれど、これは言い過ぎだろうか。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)