2月13日:駅ゲロ

2月13日(土):駅ゲロ

 

 今日は朝の6時頃からサイト並びにパソコン関係の作業をして、身辺整理の続きをこなす。ほぼほぼそれで午前中を費やす。

 午後からは仕事が入っているので高槻に出る。

 足の方はと言うと、膝と腰に関してはましになっている。それでも微弱な痛みが走る。それくらいはなんてことはないんだけれど、他の部分が傷みだしている。いい加減にウンザリしてくる。

 仕事は無難にこなす。それでいい。満足のいく仕事をしたかどうかと問われれば、さほど満足のいく仕事ぶりではなかったと思うが、僕の一個人の満足なんてどうでもいい。そんなところにこだわる必要もない。

 職場を後にする。飲食店の類は閉店準備をしている。時短営業だ。たいがいのお店は時短営業を守っているようだ。時短営業なんか、まったく効果がないとは言わないけれど、大した効果はないようにも僕は思っている。飲食が悪いのではなく、会話が問題になっているのだから、それが飲食店であろうと、喫煙場所であろうと、道端であろうと大差はないだろう。

 多くの飲食店は、コロナだから守るとか宣言が出ているから守るとかしているのではなく、協力金がもらえるから守っているだけのことだと思う。罰金を払いたくないというよりも、もらえるから守るというニュアンスが濃いように思っている。それはそれでいいだろうし、僕には関係のないことだ。

 飲食店が時短営業やってくれて助かるのは、帰途において酔っ払いを見なくなったことだ。これは如実にわかる。電車に乗っても酔っ払いを見かけることが滅多になくなった。たまにほろ酔いの感じの人もあるけれど、迷惑になるほどではない。

 それが今日、帰宅時に見たのだ。駅ゲロを。実に久しぶりに目撃した。車内のシートに寝転がっていた男性だ。それだけでも久しぶりにああいうのを見るなと思ったのだ。たまたま下車駅が一緒だった。電車が駅に着くと、その男性が起き上がった。なんとなくだけれど、あいつより先に電車を降りなければという気持ちになった。

 それは第六感が働いた感じだった。僕はそれに従う。そして従って正解だった。僕が電車を降りる。続いて彼が下車するのだけれど、外に出た途端、彼はゲロ吐きおった。先に出て良かったと僕は思った。

 あないになるまで飲んで、ホント、どうしようもないな。

 

 僕も酒は飲むけれど、それで吐くということは長いこと無縁だ。少なくともここ10年はそういうことはない。僕の自論であるけれど、自分と接点を持つようになるとそういうことはなくなるのだ。自分と接点をもたず、常に自分に無関心な態度を自分自身に対して持ち続けている人があのようになると思うのだ。自分と接点を持っていると危険信号により気づくようになる。これ以上飲んだら危ないとか、そろそろ酔っぱらっているぞとか、そういうことが早目に察知できるようになる。

 酒に飲まれるとか、周りの空気に流されるとか、そういうのは、要するに、自分以外のものと接点を持ち、関わっていることになるわけだ。相対的に自分との接点を失っているのだ。自分との接点を失い、自分と関わらないというのは、自分を無視していることになるわけだ。日ごろからそういうことをしている人が酒を飲むと吐くまで飲むようになると思う次第である。

 しかし、駅ゲロを見ると、宣言前が懐かしく感じられるのも不思議だ。また、何となくであるが、解除も間近いという気持ちにもなってくる。不思議なものだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

関連記事

PAGE TOP