<#004-18>見立てと予測(5)~録音を巡って 

 

(録音~葛藤の発生) 

 私が心理テストに頼らなくなった以上、その分、クライアントの言動や振舞いをよく観察する必要が生じることになったのであります。面接が開始されるまでに、クライアントは実にさまざまな「情報」をもたらしてくれるものであります。それらは見立てや予測のためにも有益であるということ、さらには、そうした情報はクライアントの利益のために活用されるものであることを理解していただければと思います。 

 本項では「録音」に関することを述べようと思います。「面接申込用紙」に記入していただいた後、私の方からいくつかカウンセリングに関する説明をし、最後に面接の録音の許可をいただくのであります。 

 今でこそ、サイトの方に面接を録音する旨を明記しているのですが、かつては敢えて無明記でした。つまり、クライアントは面接を受けに来て、そこで初めて自分の面接が録音されるということを知らされるのであります。大部分の人にとって、それは「予想外」のことであるのです。 

 この「予想外」の事態に対してその人がどのように振舞うか、これほど確かな情報はないと私は考えています。特に録音されることを嫌悪する場合はそうであります。この人は「カウンセリングは受けたいけれど、録音されるのはいやだ」という葛藤、つまり<プラス>と<マイナス>の葛藤場面に曝されることになるわけであります。この葛藤をその人がどのように解決するのか、それも「今ここで」その解消を迫られているのであります。自分がその葛藤を処理しなければ、カウンセリングが始まらず、物事が前に進まないという状況にその人は立たされるわけであります。クライアントたちはどのようにこの状況を乗り越えるのでしょうか。 

 

(葛藤の生まれない例) 

 もちろん、あまり葛藤を経験しない人たちもおられます。録音を速やかに許可してくれる人たちであります。この人たちの中には私を信頼しているという人もおられるでしょう。録音が必要なら協力しましょうという感じの人もおられるのです。中には録音されることを喜ぶクライアントもおられました。自分のことを残しておいてくれるのが、その人にとってはとても嬉しいことであったようです。 

 でも、中には煩雑なことを考えたくないという感じの人、葛藤を経験できないといった感じの人もおられるのであります。「録音するなら勝手にどうぞ」とばかりに、投げやりと言いますか、無関心な態度の人もおられます。 

 

(葛藤から決断へ) 

 私の経験では、速やかに許可してくれる人よりも、躊躇し、迷う人の方が多かったように思います。  

 少し迷って、決断することのできる人もあれば、決断するまでにあれこれ質問してくる人もあります。決断を先送りする人もあります。例えば、録音を許可するけれど、途中で録音の中止を求めるかもしれない、などと言う例であります。決断を回避した人もおられました。この人は録音されるならカウンセリングを断りますと言って、お帰りになられたのでありますが、録音に対してイエスともノーとも実は言っていないのであります。 

 

(録音拒否を決断する例) 

 私が録音の許可を求める場合、クライアントはそれを許可するか拒否するか、つまり、イエスかノーか、そのどちらかを選択することになります。上記のように、その選択そのものを回避する人もあるわけですが、大部分の人はどちらかを選ぶのです。 

 ここでイエスを選ぶかノーを選ぶかはその人次第なのですが、ノーと答えた場合、私は一度だけ食い下がります。つまり、録音させてもらうとそれがクライアントの利益にもつながること、録音内容は他者が聴くことはないということを再び強調して、もう一度許可を求めるわけです。そこまで言うならと録音を許可してくれる人もあれば、それでも頑なに拒否する人もいます。拒否するのであれば、私もそれ以上無理強いはしないことにします。 

 既述のように、これは<プラス>と<マイナス>の葛藤であります。許可するか拒否するかは、マイナスがあってもプラスを実現するか、それとも、プラスを犠牲にしてもマイナスを回避したいか、その人の傾向を示すものであると私は考えています。この傾向は、その人が「問題解決場面」に立たされた時には、必ずと言っていいほど(と私は信じている)、現れるものであると私は考えています。従って、以後、カウンセリング場面でも困難な場面に出くわすと、この人は同じような選択をするであろうことが予測できるのであります。 

 

(個の確立) 

 さて、クライアントは面接が録音されるということを知らされずに受けにきます。録音の許可を求められて、初めてそのことを知らされるのであります。クライアントは録音されることを予期していないものであり、そこで初めて予期せぬ事態に直面することになります。つまり、「思っていたことと違うことが起きた」場面に出くわすことになるのです。 

 「思っていたことと違った出来事」というのは、その人にとっては環境世界が敵対してくるような体験につながるでしょう。自分があたかも環境世界から切り離されたような経験となり、その人はここで「個の確立」が求められることになるわけであります。象徴的には「母子分離」の場面でもあるわけであります(詳しくは木村敏著『分裂病現象学参照)。従って、録音の許可を巡る場面では、葛藤処理だけでなく、クライアントの分離の体験、個の確立の程度なども示されることになるわけであります。だから重要な情報源となるというわけであります。 

 ある程度、心的に「健康」な人であれば、この状況において「個の確立」の方向へ踏み出すものであります。この状況の中で自己を保つ、または立て直すのであります。一方で、クライアントたちの中にはこの状況において「退行」的に反応する人もおられるのです。例えば「暴発反応」(要するにキレるとか怒るとか)を示す人もあれば、全面的依存(つまり、「すべてそちらで決めてください」といった態度、全面的無力)を示す人もあるわけです。このような人たちは、個の確立を求められる場面でそれがうまくできず、且つ、葛藤を抱えられない傾向が見られるのであります。 

 躊躇したり、迷ったりするというのは、ある意味では、その葛藤を抱え、なんとか処理しようと試みていることが窺われるのです。しかし、葛藤を抱えながらも、その解消に成功する人もあれば上手く行かない人もあることになります。これらはすべてその人の「病態水準」に関する手がかりとなるものであると私は考えています。 

 

 さて、録音の許可を巡る場面で、クライアントに故意に葛藤状況に直面してもらっていたわけであり、我ながら意地悪なことをするなと思うのですが(ちなみに心理学の実験は被験者にはけっこう意地悪なものが多い)、今では録音することをサイトに明記してあります。録音されることがイヤなら、面接を録音しないどこか他所へ行くでしょう。録音されても構わないという人だけが来るようになると思われるので、私にとってはその方がいいと思うようになったのでした。 

 また、録音許可場面でのやりとりも、いい加減、面倒くさく思われてきたことも理由の一つであります。イエスかノーか、その選択にかなりの時間を要する人もあり、場合によてはなかなか面接が始められないということもあるのです。それで、結局、ここでクライアントに葛藤状況に面してもらおうと試みなくなった次第であります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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