<#004-14>見立てと予測(1)~概説 

 

(見立て、予測、過程) 

 この節ではカウンセリングにおける見立てと予測について述べていきます。あくまでも私個人が実施しているところのものを記述するつもりでいます。 

 見立てと予測を綴るということは、同時に、カウンセリングの過程について述べることにもなります。過程に関しても後に綴ることになると思います。 

 まずは見立てと予測についてざっと外観して、それから詳細を取り上げていこうと思います。 

 

(見立てと予測、その概念規定) 

 見立てと予測ということを簡単に規定しておきます。 

 まず、「見立て」ということですが、これは狭義では医師の「診断」に該当するものであります。臨床心理学者が「見立て」という場合、この意味を指していることが多いように私は感じています。 

 もう少し広い意味では「見立て」はパーソナリティ理解を含みます。病理や問題の有無に関わらず、その人を理解する営みであります。 

 「予測」は将来像を思い描く行為であります。これも二つの領域に分けることができます。一つはそのクライアントに今後どういうことが起きるかに関わる予測であります。もう一つはその人とのカウンセリングで今後どういうことが起きるかに関わる予測であります。前者は個人に対しての予測であり、後者はカウンセリング場面に対しての予測ということになります。 

 見立てと予測と、ここでは区別して記述していますが、現実には両者は重なり合う部分がかなりあります。その人の見立てを立てることは、同時にその人に関する予測を立てることにつながり、その人の予測を立てることは見立てを立てることにつながるのであります。後で具体的に見ていく予定でありますので、上記のことも理解していただけるかと思います。 

 

(見立てと予測に関する諸問題) 

 クライアントが継続してカウンセリングを続けている場合、見立ても予測もその都度修正されることになります。これは私の中で修正されるものであります。これが修正されない場合、それはカウンセラー側の問題であると私は考えています。 

 また、見立てや予測をクライアントに伝えるかどうかという問題は難しいところであります。予測に関しては、あくまでも現時点での私の見解であるという条件を付した上で、クライアントに伝える場合もあります。特にクライアントにとって困難なことが予期される場合には、その旨を伝えて、クライアントにはそれに備えてもらいたいという思いがあるからであります。 

 こういう見立てや予測をあまり重視しない臨床家もおられるようであります。カウンセラー側の見立てや予測は、それによってクライアントの動きに遅れを取ることになりかねないからであるという理由です。私の体験でも、確かに、この理由は一理あるよう思われるのであります。 

 だから、クライアントの動きに合わせて見立ても予測も修正しなければならなくなるのであります。それでも、どうしてもクライアントの動きから一歩遅れる感じがつきまとうのも確かでありますが、遅れを取ることになったとしても、見立てと予測は立てた方がよいと私は考えています。 

 

(ガイドとしてのカウンセラー) 

 さて、「見立て」はひとまず置いておいて、私が「予測」ということを取り入れるようになったいきさつを述べておこうと思います。 

 私がカウンセリング研修生であった頃、当時の師匠はクライアントについていくということを重視していました。クライアントの話、並びに感情や気持ちなどにカウンセラーはしっかりとついていくということであります。それがずいぶんできるようになったと師匠に褒められた時は、これで私もカウンセラーとして通用するな、などと自惚れたものでありました。それでも、その一方でなんとなく違和感みたいな感情も私の中にありました。本当にそれでいいのかといった疑いの気持が生まれてきたのでした。 

 つまり、クライアントについていくということは、クライアントが右に曲がればカウンセラーも右に曲がり、クライアントが左へ向かえばカウンセラーも左に向かうということを意味しているのであります。二人同行するようなもので、それはそれでクライアントには価値ある体験となることでしょう。でも、この場合、クライアントが道に迷えばカウンセラーも一緒に迷うことを意味しているようで、私はそこに問題を覚えたのでした(補足1)。確かに、一人で迷うより、同伴者がいた方が心強いかもしれません。それでも、一人が道に迷っても、もう一人は正しい道が見えていた方がいいのではないのか、と私は思うのであります。 

 では、正しい道というのはどういうことなのでしょう。おそらく、正しいと思える道は無数にあることでしょう。それをどのようにして知っていき、選択すべきなのでしょうか。非常に難しい問題であるように私には思われたのであります。 

 この問題に一つの解決をもたらしてくれた体験があります。私が30代前半の頃、私は趣味で山登りをしていました。いつもは単独行をするのですが、たまたまガイド付きの登山に参加したのでした。この登山、途中までは道があったのですが、ある所で道がなくなっていました。その数日前に台風があり、そのため道が荒れていたのでした。これには山岳ガイドさんも予想外だったようで、彼は私たちを残してコースを探しに藪の中へ入ろうとしました。その時、「こっちに道が続いているよ」と一人の参加者がガイドさんに言ったのです。私も一瞥しましたが、確かに獣道みたいな細い道がそこにありました。ガイドさんは、ただ「そっちは違う」とだけ言い残して、藪の中に入っていきました。この瞬間、私の中で一つ腑に落ちた感覚が生まれたのでした。 

 つまり、こういうことです。正しい道というのはその都度探しても構わないのであります。それよりも間違った道を知っていることの方が重要であるということです。私は目からうろこが落ちる思いで教えられたのでした。 

 この経験を契機に私の考えがまとまってきたように思います。クライアントについていくのはけっこうなのでありますが、クライアントが間違った方向、あまり望ましくない方向に進みそうになった時に、クライアントを制止し、クライアントに方向修正してもらうだけでいいのだと思うようになったのであります。正しい道はクライアントの方で探していくでしょうし、その都度一緒に模索しても構わないと思うようになったのでした。カウンセラーは、正しい道を知っているのではなく、間違った道を知っているガイドである方が望ましいと私は考えるようになったのでした。 

 

(「悪い」ことの予測をすること) 

 これらの経験から、私の考えるところの予測とは、「悪い」ことの発生に関するものであります。クライアントにとって好ましくないこと、苦しいこと、困難なことを予測することが何よりも大事なことであると考えるようになったのでした。 

 そうした「悪い」予測を伝える場合、クライアントにその時の備えを早い段階からしてもらうように、少なくとも心の準備をしてもらうようにしようと私は願うのであります。 

 

(補足1) 

 クライアントについていくというのは一つの理想ではあります。ここではクライアントが道に迷えば一緒に迷えという感覚だけを取り上げましたが、他にも否定的感情に関わる問題もあると私は考えています。激しい怒りや敵意、憎悪のような感情はついていくことが困難であり、且つ、それについていくことが治療的意義があるとも私には思えないのであります。 

 

文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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