<テーマ165> 「自力療法」と「対症療法」
(165―1)ある父親の話
(165―2)「治癒」という観点
(165―3)「症状」としての「自力療法」
(165―4)「自力療法」成功者は厳しい
(165―5)「対症療法」
(165―6)本項の要点
(165―1)ある父親の話
ある若いクライアントさんが父親に言われました。「俺は若い頃、自力でうつ病を治した。だからお前も自分で治せ」と。そして、息子がカウンセリングを受けたいと望んでも、それに賛成できず、最小限の援助しかしないと言い張るのです。
この子は、明らかな精神的症状を呈しているにも関わらず、家族にそれに気づいてもらえず、父親のこの見解のために「治療」の機会や可能性も限りなく閉ざされてしまっていました。
しかしながら、本項で考えたいことは、この息子さんの方ではなく、この父親の言葉です。クライアントである息子さんには明らかに精神的な不具合が見られています。息子のそういう姿を見ていながら、父親はこの言葉を発したのだそうです。
ちなみに、私には、この父親の言葉は、本当に「心の病」を克服した人の言葉のようには聞こえないのです。むしろ、自分や他人、社会を憎んでいる人の言葉のように私には響いてくるのです。それは後ほど取り上げましょう。
この父親のことに関しては、私は分かりませんが、なんでも若い頃に「うつ病」に罹ったということです。ただし、これは父親の自己診断です。恐らく、それは「うつ病」ではないのでしょうが、とにかく、それを自力で「治した」と言っているわけです。私には次の二つの可能性が考えられるのです。
第一に、父親は「うつ病」を自力で治したと思い込んでいるだけで、実際には「治って」いないという可能性です。もしくは、他の何かを治したということも考えられるでしょう。
第二に、父親は「うつ病」を「治した」けれど、他の何かに罹患しているという可能性で、「うつ病」以外のものはそのまま残っているということです。
(165―2)「治癒」という観点
本項で取る上げるテーマは「治癒」にまつわる事柄です。その中でも二つの事柄を取り上げます。
一つは「自力療法」と名付けましょう。上記の父親のように「自力」でそれを治したと主張されているようなものはすべて「自力療法」と表記します。
もう一つは「対症療法」です。これはその名の通り、ある「症状」に対してのみ施された「治療」という意味合いで用います。ギャンブル依存症者がギャンブルをしないための訓練を積むというようなものは「対症療法」に含まれることです。
この両者に関してのいくつもの問題、利点と弊害も含めて、私の思うところのものを記していきたいと思います。
まず、「自力療法」から始めますが、どちらの「療法」であれ、そこには「治癒」という観点を述べる必要があるように思います。
真の治癒とは何かという問いに私はとても答えられません。それはあまりにも難解な問いだからです。
しかし、真に「病気」を克服した人は、その「病気」対する態度に違いが出てくるものだと思います。それは人生上の大変化だと私には思われるくらいの差異なのです。
本当にその「病気」を克服した人は、おそらく、他人が同じ病気に罹患していても、無関心ではいられないだろうと思うのです。同じ病気に苦しむ人に対する共感能力が高くなっているだろうということです。そうして、その病気から解放されても、その人にとってその病気が一つの人生上のテーマになっているでしょう。治癒しても、その人はその病気に何らかの形でかかわったりすることもあるでしょう。
こうした例は調べてみるといくらでも見つかると思います。例えば、癌で苦しんだ経験があり、それを治癒できた人は、他人の癌体験に無関心ではいられなくなるだろうと思いますし、その人は癌患者のために支援団体を結成したり、啓蒙したりといった活動をするようになるかもしれません。
自分の病気が治ったのだから、病気のことは忘れて生きようと思う人は、確かに病気は治癒したかもしれませんが、その病気の体験から何も得ていないし、何も変わっていないのだと私は考えています。本当に状態が変わったとも言えないのではないかと私には思えるのです。
先述の父親の言葉には、同胞に対する共感性が欠けているように見えないでしょうか。ましてや相手が自分の息子であり、かつて父親が罹患したような極端な抑うつ状態に陥っている息子を見てそういう言葉を発しているのです。本当に父親は「うつ病」を自力で「治した」のかどうか、私には疑わしいのです。
(165―3)「症状」としての「自力療法」
自力で「治す」ことは必ずしもその人の強さを示すものではないと私は考えています。むしろ、周囲の他者や世界に対しての閉鎖的な姿勢を示している可能性の方が高いと理解しています。実際にどれくらい「自力」で行ったのかは不明なのですが、専門家に頼らないというのは、人間不信の一つの表れではないかと思います。
つまり、その人の抱える「ある種の問題」のために、その人は「自力療法」を自らに施すことになったということであり、この「自力療法」はそれ自体一つの「症状」だという見解を私は持っているのです。
ところで、ここまでお読みになられた方には一つの疑問が浮かぶかと思います。それは、病気を克服すると必ず人生が変わらないといけないのかという問いです。その人の生き方がそこで変わらなければいけないのか、そうでないと「治癒」したとは言えないのかという問いです。
その問いに対して、私はその通りですとお答えします。それが身体であれ心であれ、個人の状態に変化が起きるということは、その人自身と世界に対しても変化が生じるからです。したがって、「自力療法」で状態を好ましいものにした場合であれ、「対症療法」でそうなったとしても、その人の状態が本当に変わったのであれば、彼自身や彼の世界も変わり、その世界への関わりも以前とは違ってくるはずなのです。
さらに次のようにも言えるでしょう。身体の病気であれ、心の病気であれ、そこにはその人の生き方という背景が含まれているものです。「心の病気」ではそれが特に顕著だと私は考えています。ある日、突然、「心の病」になるという例は限られていて、大部分はプロセスを経て「病」に至っているものなのです。
従って、「病気」が「治癒」する、しかも本当に「治癒」するとは、その「病気」へと結実した生き方にも変化が生まれるということだと私は理解しています。そして、症状だけ除去して、人生や他者への態度が以前のままであるというような場合、それは「偽りの治癒」であると私は理解しています。
(165―4)「自力療法」成功者は厳しい
上記の父親はどこか自分だけ克服して、それで良しとしているような節が感じられなくもありません。息子がかつて自分が経験したような苦しみを経験しているのに、その苦しみに対して理解できないでいるのです。「自力で治した」ためにそうなったとも言えるかもしれません。これは「自力で治す」ことの悪性の副作用だと私は考えています。
よく、「痛みを経験した人は他人の痛みが分かる」と述べる人を見かけますが、それは説明としては不十分なのです。喉元過ぎればの喩えの如く、痛みは忘れられてしまうことも多いものです。他人が痛みを抱えている時には、自分のかつての痛みを忘れてしまっているというような例もたくさんあるでしょう。
痛みに対する共感能力というものは、単にその痛みを過去に経験しているということだけでは不十分で、その他の要因も関与していると考える方が理に適っているように思われます。
私は次のように考えます。「痛みを経験した人は、その痛みに共感的に接してもらえた体験を通して、他人の痛みが分かる」と。「自力療法」ではこの文章の中間の部分が欠けてしまうのです。
だから、「自力で治した」と豪語する人はどうしても他人の痛みに対して共感できなくなるのかもしれません。この父親のことを責めるつもりはありませんが、父親が「自力で治した」ことは、むしろ不幸なことだったように思われるのです。そのために彼の息子が苦悩を理解してもらえず苦しむことになっているのですから。
(165―5)「対症療法」
病院を訪れる患者さんやカウンセリングを受けに来るクライアントは、確かに不具合を体験しています。痛みや苦悩を抱えているのです。そして、それの除去だけを求めている人もその中には多数おられるのです。
良心的な医師やカウンセラーは、痛みや苦悩の背景の部分まで考慮するのですが、一方で、患者やクライアントのニーズに直接的に応じようとする立場も生まれているように私は感じています。むしろ、後者の方が今は勢力が強いように感じています。これは望ましいこととは私には思えないのです。確かに、痛みを感じている、それなら痛み止めを処方しましょうというのは理に適っていることです。でも、その痛みを生み出している背景を無視してしまっていいのだろうかと私は思うのです。
フロイトの神経症理論は、極端に簡略化して述べれば、それは個人の中の衝動を実現しようとする力と外部の禁止との間の妥協として症状が現れるということです。フロイトの後継者たちは、より広い視点に立って、例えば、症状は個人が成長しようとする力と成長を阻止する力との妥協物であると捉えたり、対象と関わる欲求とその阻止との葛藤と捉えたりしているのですが、いずれにしても、症状というものを何らかの葛藤の表れと見做している点では違いがないのです。
この葛藤は、その人の人生上で出会われるものなのです。そこに至るまでの道筋があるわけなのです。そして、時には人間にとって誰もが経験するような葛藤である場合もあります。
何が言いたいのかと言いますと、症状はその人の人生上の何か、心の中の何かと関わりがあり、接点があるということなのです。従って、症状だけを除去するという方法は、その人の人生上の何か、心の中の何かをも同時に損なうものだと私は考えています。
「対症療法」の欠点がここにあるのです。症状だけを除去するということは、その人の生を縮小することにつながる可能性があるのです。あくまでも可能性として考えられるということは強調しておきますし、そうならないという人もあるかもしれません。
先の父親は、この観点に立つと、何かを自分から切り離してしまっていると考えることもできそうです。この父親は、「自力で治す」際に、自分の心の一部を自分から切り離してしまっているのかもしれません。そうすることで、症状と症状を生み出すことになった人生上の問題や心の何かをも同時に切り捨てて生きてきたのかもしれないのです。
私は断酒会に参加していたことがあります。これはアルコール依存症の治療プラグラムとして組み込まれているもので、そこでは参加者が自分の酒害体験を話すのでした。大抵の参加者は、酒を遠ざけ、自分の人生からアルコールを排除することだけを考えているようでした。確かにそれも必要なことでしょう。
しかしながら、酒を飲んで、酩酊して、そこまでやんちゃしてた人が、酒を断ち、借りてきた猫のように大人しくなっている、もしくは骨抜きになっているような姿を見ると、それも正しいことなのかどうか私には疑問だったのを覚えています。彼らは酒を断つと同時に、他の多くの事柄も人生上、生活上から排斥してしまったように私には思われたのでした。
それも酒害に比べたら小さな喪失だと言えるかもしれません。でも、いくらかの生の縮小はどの人にも生じていたのではないかと、私は思うのです。
繰り返しますが、「対症療法」的な方法とか発想は、生の縮小をもたらしてしまう可能性があると私は個人的には考えており、これは「対症療法」における一つの弊害だと考えています。
(165―6)本項の要点
まだ述べたい事柄は尽きないのですが、この辺りで一旦筆を置こうと思います。
私は何人もの自称「自力療法」成功者を見聞してきましたし、「対症療法」の実践者もみてきました。この経験から私の思うところを綴ってきました。
「自力療法」も「対症療法」も、どちらも困った現象が付随するということが本項での主題でした。
「自力療法」では、他者の痛みや苦悩に対しての共感能力が損なわれるだろうし、これに成功した人は他人に対して、世界に対して冷たいという印象が私にはあります。
また、「対症療法」の方では、「症状」の除去と同時にその「症状」と関連する領域の事柄もその人から失われてしまうということ、それはその人の生が縮小される結果になってしまうという問題点を述べました。
あくまでも、上記のことは、私の個人的な見解にすぎないので、決してそんなことはないと主張される方々もおられるでしょう。それはそれで構わないと思います。個人の思想、あるいは体験はその人にとっては真実でありますので、反対だとおっしゃるかたは自分の真実を持てばいいと思いますし、私は私にとって真実と思われるところのものを述べた次第であります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)