12年目コラム(26):目的論(2)

 ここに植物の種子が一つあるとしよう。この種子の存在はさまざまに説明できる。
 この種子がここにあるのは、この種子をつけていた花が枯れたからだという説明ができる。また、この種子がここにあるということは、この種子をつけていた花が存在していたということを意味し、この種子は芽を出す準備ができていることを意味しているという説明も可能である。最後に、この種子がここに存在するのは、芽を出し、花を咲かせるためだという説明もできる。
 今のは、順番に言うと、因果論、意味論、目的論の観点から説明したことになる。この種子の存在は、因果論的にも、意味論的にも、目的論的にも説明できるわけだ。そして、そのいずれが正しいとも言えないし、どれも正しい説明を含んでいるということが分かると思う。
 因果論というのは、あくまでも一つの見方であり、思考の枠組みである。もし、この種子の存在を理解しようと思えば、意味論的にも目的論的にも見ていく方がいいわけである。一つの観点に拘泥してしまうことが望ましくないことであるし、そのどれが正しいかというように一つの観点に絞らなければならないわけでもない。

 目的論的に考えるとは、それが「何のためにあるか」という問いを立てることである。個人の言動であれ、人間関係で生じる現象であれ、「何のためにそれが生じているか」を問うていくことである。
 ここでユングの事例を借りようと思う。僕の好きな事例の一つだ。
 ユングの勤務していた病院に年老いた婦人が入院していたのだけど、その女性がなにやら手を動かしてやっている。それは「靴を磨いている」とか「靴を直している」ように見えていたそうだ。そういうジェスチャーをしきりにしていたということだ。
 やがて、この女性は病院で息を引き取る。彼女のお葬式の時、彼女の兄にユングはいろいろ尋ねてみたところ、次のようなことが明らかになる。この女性は若い頃に大恋愛をしたのだが、それは悲しい結末に終わったそうだ。この悲恋から彼女の「精神病」が始まったそうだその恋人の職業が靴屋だったという。
 こういう背景を知ると、彼女が病室でしていた行為の意味がはっきりしてくる。では、この女性は病室で何のためにそういう行為をしていたと考えることができるだろうか。因果論で考えれば、彼女がそれをするのは彼女の恋人が靴屋だったからだという説明になると思う。それは正しいが、もっと他の観点から見ることができるはずである。
 この女性がそのジェスチャーをするのは、例えば、失った恋人を身近に感じるためであったかもしれないし、過去を失わないためにしていることであったかもしれない。もはやこの女性から聞くことができないので、僕たちは推測するしかないのだけれど、いろんな可能性があると思う。
 もし、彼女が恋人を身近に感じるためにその行為をしているということであれば、それは彼女がどれほど孤独であるかを意味していることになる。また、過去を失ってしまわないためにそれをしているのであれば、それは、彼女の中からいろいろな事柄が消失しつつあることを意味しているかもしれない。
 この女性は靴屋と同一視しているわけなので、この行為は「私はすべてあなた(靴屋の恋人)のものです」ということの意思表示であるのかもしれない。

 ところで、こういう話をしていると、僕はよく質問されるのだ。それもウンザリするような質問だ。「なるほど、いろんな観点や可能性が考えられるということは分かりました。それで、どれが正解ですか。何が正解ですか」という質問だ。未熟な思考の持ち主から発せられるものだ。
 正解というものが、もしあるとしても、それは用意されているようなものではなく、仮説を立て、それを検証し、少しずつ正解(あくまでもそれがあるとしての話だ)に近づくことが大切なのだ。むしろ、正解を知ることではなく、正解に至ろうとするプロセスの方に意味があるのだ。
 自分自身やある人の言動の意味や目的は何か、その正解を専門家から聞こうというだけの人は、正直に言えば、子供っぽいのだ。一緒にそれを考え、それを知っていく過程に参与できる人だけに改善の道が開かれていると、極端な物言いだけど、僕はそう信じているのだ。

文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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