<テーマ154> 「ベテラン」の就労(5)
(154―1)没頭的な活動
(154―2)他者の不在
(154―3)分身としての妹
(154―4)感情という厄介者
(154―1)没頭的な活動
ここまで4回に渡りFさんのカウンセリングと就労過程を追ってきました。その第一ラウンドを終えたところでした。先へ進む前にここで、これまでの経過を振り返りつつ、この4回で述べきれなかった点をいくつか補足しておきたいと思います。
Fさんの就職活動は難航を極めていました。アルバイトでさえ決まらない状態でした。繰り返しますが、それは、Fさんをはじめ、「ベテラン」の方々に能力がないとか劣っているとかいう意味ではありません。そこは誤解なさらないでほしいのです。
「ベテラン」の人たちは、私が経験した範囲では、何か一つのことをかなり根詰めて続けるという傾向があるように思います。つまり、言い換えるなら、活動のレパートリーは広くないけれど、狭い活動レパートリーにおいては、一つ一つがかなり根気よく継続するということです。時には、「それがそんなに大切なことなの?」と思うような活動を延々と飽きることなく継続しているという例もあります。
Fさんの就職活動もそのような色彩を帯びていました。就職活動をするとなると、ひたすらそればかりをしているのです。物事をするときにはそのようなやり方をするのです。
だから、「ベテラン」たちはある意味では職人のようなタイプであることが多いように思います。一つのことに従事させたらとことんそれをやり続けるといった感じの人なのです。これは彼らの一つの資質であり、資源さえであると私は考えるのですが、彼らはそれを生活と結びつけることがないのです。いささか勿体ない話であります。
これはまた別のベテランの話なのですが、家に引きこもり続けるその人は、酒もタバコもしませんでした。その代り、コーヒーばかり飲んでいると言うのです。このコーヒー好きが高じて、いくつもの豆を独自にブレンドしてみたりするようになりました。時には、オリジナルのブレンドを家族に試飲してもらい、高評価を得ることもありました。
そういう趣味や特技があるなら、カフェで働くのも良しだし、コーヒー職人の道を歩むのも良しだと考えそうなものなのですが、そうはならないのです。彼はそれを仕事にはしたくないと頑として言い張るのです。せっかくの技能が生活の糧に結びつかないのです。
こういう例を私はいくつも経験しています。見ていると、非常にもどかしいような気分になります。それだけの特技を持っていながら、それで生計を立てようとしないのです。
このように述べると誤解されそうですが、それで生計を立てるべきだとか、それを生活の糧に活用すべきだなどと私は言っているのではありません。そこは早合点してもらうと困るのです。それを生活の糧にしてもいいし、趣味の範囲にしてもいいのです。ただ、それを生活の糧にするというのは一つの選択肢であるに過ぎないのですが、その選択肢の可能性が初めから閉ざされているという点がもったいないということなのです。
自分の持っている資質を自分の人生に活かそうとしないというのは、彼らの生が縮小しているからだと思います。彼らは、それを仕事にする自信がないというようにおっしゃられるのですが、正確に言えば、彼らが自分自身を拡張していけないことの表れであるように私には思われるのです。他にも理由はあるでしょうけれど、私にはまずそのように感じられてしまうのです。
(154―2)他者の不在
「ベテラン」の人たちのカウンセリングで私が困るのが、彼らの「自己中心性」であります。この「自己中心性」という言葉の意味は、自分だけしか居ないということで、他者が彼らの視野に入らないということです。
Fさんとの関係において、私も失望を幾度か経験しました。「ベテラン」の人はしばしばこういうことをしてしまうものです。
最初、Fさんは自分のやり方で突っ走っていました。私の意見や提案はまるで聞き入れられませんでした。徐々にましになったとは言え、根本的な態度は変わりませんでした。彼のことで情報を与えてくれたクライアント、その後もFさんのことを気にかけてくれたクライアントのことは、彼には眼中にないのでした。そういう人の存在を彼らは気づかないのです。
資格云々のエピソードを思い出していただきたいのです。その仕事をするならこの資格を取っておいた方がいいよと人が教えてくれたのです。そこで、例えば、その資格を取得する気がなくても、「教えてくれたその方にお礼を言っておいてください」とか、「気にかけてくれてありがとう」とか、あるいは私に対しても「いろいろ当たってくれて嬉しく思います」とか、何かと言えることはあるだろうと思います。もっとも、最後の私への礼はなくても構わないのですが。彼にはそういうことが言えないのです。
彼が中学生の時、学校に来なくなった彼を心配して友達や先生が尋ねてきてくれています。彼は母親に命じて彼らを追い返しています。Fさんに、その時、彼らがどんな思いで帰ったかに思いが至るだろうか。
妹さんのせっかくの結婚式で、自分の感情に任せて行動して、良くない後味を残しておいて、両親や妹さんがどんな気持ちになったか、Fさんに想像できるだろうか。
また、彼の面倒を見てもいいと買って出た社長さんとの約束をすっぽかして、その社長さんがどんな思いをするか、Fさんに考えられるだろうか。
私はそういうのに慣れているけれど、気分を害して何も言わずにプイッと去ってしまったり、予約を取っておいて無断で来なかったりしたら、相手がどんな気分になるかFさんに考えられるだろうか。
私は確信しています。Fさんのことで悲しんだり失望したりした人は他にもっといるはずだと。Fさんにはその人たちの感情は決して見えないのです。彼の世界には他者が存在していないからなのです。「ベテラン」のひきこもりは、外的な意味でのひきこもりだけではなく、内的世界においても自分独りしか居ないのです。
それでも、私の個人的な見解では、まだFさんはましな方です。親切にしてくれた人に対して、もっとひどい仕打ちをする人たちもいます。人間社会の中で、人間関係の中で生きていない孤立した人のする仕打ちは、とにかく意地悪で、執拗で、多くの人を深く傷つけるものです。そして、その人は自分の仕打ちが正当なものだと信じているのか、傷ついた人のことなどまったく眼中にないというような印象を、そういう人たちと接していて、私は受けています。それこそ改善されなければならない部分であるのに、なかなかそこに光が当てられないのです。
(154―3)分身としての妹
就労のテーマから逸れるのであまり触れることはなかったのですが、Fさんと妹さんのこともここで取り上げておきたいと思います。
Fさんは小さな女の子、女児が好きだと言います。子供を見て可愛いと思えないとしたら、それはそれで別の問題があるのですが、Fさんのような傾向もやはり問題があるのです。これを「ロリコン」だの「変態」だのと片づけてしまってはいけないのです。ここには深刻なテーマが含まれているからなのです。
ある時、私はFさんに「何歳くらいの女の子が好きなの」と尋ねてみました。彼は6歳から8歳くらいの女の子が特に好きだと答えました。
私はこんなふうに憶測します。妹さんが6歳から8歳くらいの時に、Fさんに決定的な何かが起きたのだと。妹さんとは確か4つほど年が離れていたから、妹さんが6~8歳の時、Fさんは10~12歳であり、その時期に妹さんに関することでFさんは何かを体験してしまったのだと思うのです。それは6~8歳以降の妹さんの成長がFさんには受け入れがたいものになっていることから窺われるのです。そして、中学1年生の時、つまり彼が13歳の時に登校を渋るようになり、14歳時には完全な不登校になってしまっているのです。私は何か一連の流れがここにあるように思われて仕方がないのです。
当時、Fさんに何が起きたのか、私には分かりません。Fさんはその時代のことをほとんど話してくれなかったし、もしかすると、Fさん自身あまり覚えていないのかもしれません。小学校時代は彼の中では切り離されていましたので、その時代に何かあったという推測はそれほど間違ってはいないようにも思えるのですが、カウンセリングでそれを十分に取り上げることはできませんでした。
だから、ここで述べることはすべて私の憶測の域を出ないものであります。恐らく、その時期に、妹さんのことに関して、親との間で彼が何かを経験したのではないかと私は考えています。
一つの仮説から出発します。その仮説とは「Fさんは妹さんを同胞のように体験していた」というものです。同胞と言うか、一心同体と言ってもいいし、自分の一部のようにと言ってもいいかもしれません。だから妹さんの結婚式に出るということは、彼にとっては自分の一部を決定的に失うという体験だったかもしれないのです。一心同体だった同胞が離れて行ったという体験です。その後で、彼が独りになりたいと主張したのは、彼が重要な何かを失ってしまったかのように体験していたからだと思うのです。
しかし、問題は、なぜそのような一心同体感を彼が獲得しなければならなかったのかということにあります。すべて推測で物を言います。私の見解は以下の通りです。
第一子にとって、下の子はかなり不思議な存在に見えるのではないかと思います。自分に良く似た子、自分の分身のような存在が新たに生まれているのです。そして、かつて自分が君臨していた座にこの自分とそっくりの存在が占めるようになっています。自分にそっくりで、自分がかつて居た座を占めているのに、親の関心や愛情は自分の方にではなく、その新しい存在の方に注がれています。繰り返しそういう光景を目にし、そういう場面に遭遇します。この時、第一子はどのようにしてこの苦痛な状況から身を守るでしょうか。
その一つの解決法が、自分と新たな存在との垣根を取り払うというものです。これはつまり、自分とよく似た存在が愛されているのを見て、自分が同じように愛されていると信じるということなのです。下の子と一心同体のようになることによって、第一子は自分が愛されているという確信を得ようとするわけであり、自分が親から見捨てられていないという事実を作るということなのです。このテーマは掘り下げていくとドッペルゲンガ―の問題(注)へと行き着くのですが、ここではこれくらいにしておきましょう。
(注)このテーマに興味のある方はオットー・ランク著の「分身~ドッペルゲンガ―」をお勧めします。上記の私の憶測も、同書から多くの示唆を得ています。
従って、妹さんが6~8歳の頃、つまりFさんが10~12歳の頃に、彼は妹との一心同体感を喪失するような何かを経験したのではないかということなのです。Fさんにとって初めての分離経験であったかもしれません。その後に、彼の不登校が始まり、ひきこもりが続いて生じているのです。
私はそこに一連の流れを見ているのですが、Fさんの中では、それ以前とそれ以後というように、両者が完全に乖離されているのです。
(154―4)感情という厄介者
あと、いくつかFさんを初め「ベテラン」とのカウンセリングについて述べることにします。
「ベテラン」とカウンセリングする場合には、カウンセリングの枠を変更すること、あるいは修正して本道から外れるようなこともする必要があるのを感じます。彼らには自己表現が難しい。語るに値する体験を有していないというような人もおられます。
その中でも特に感情というものは彼らが取り扱うことのできない厄介者となっているように思います。十分に社会化されていないために、感情も剥き出しのものを体験してしまうのだろうと思います。そのため、感情を表現することに対してはひどく警戒していたり、恐れていたりするのです。
ある「ベテラン」は述べました。その人は怒りを感じているけれど、それを出さないようにしているのでした。私がそれを聞こうとするので、その人は「わたしを怒らせようとしている」と憤慨されるのです。しかし、私が関与する以前から、その人は怒りを体験しているのです。怒りを表現しないのは、それをすると何もかもが台無しになるようだからだと、その人は答えました。つまり、感情はその人にあっては常に破壊的なものとして体験されているのです。
実際、怒りやその他の感情を抑え込んでいるので、彼らは控えめであったり、無表情であったりするのですが、一たび怒りを表現し始めると、手に負えなくなってしまうのです。彼らは自分でもそれをコントロールできないのです。
だから、彼らの怒りの感情ほど援助しようとする人間にとっても厄介なものはないのです。社会の中で生きていない人の怒りはとにかく激しくて、辛辣で意地悪で、攻撃的な傾向を帯びるのです。そして、止まるところを知らないかのように、それが延々と続くこともあるのです。
こうなってしまうと、彼らはいかなる対象であれ、断絶してしまうので、関係を維持していくためにはそちらに進んではいけないということになります。ここには一つのジレンマがあるのです。関係を維持するためには感情を取り上げない方がいい、でも、一方では、感情が発露されなければ彼らは解放されず、前に進めないというジレンマです。
Fさんのカウンセリングでは、前者に重点を置いて始めました。関係が切れないこと、そこを重視したのです。外側の事柄、つまりFさんの就職活動を話題の中心に据えて進めていったのです。従って、Fさんの場合はそのように進めて行ったという意味であり、そこは強調しておきたいのです。どのクライアントに対しても同じように進めるわけではなく、そのカウンセリングにおいてどこに重点を置くかによって、内容も進展具合も異なるものなのです。
さて、「ベテラン」の人たちは苦しい生活を送っているものと察します。外見上は穏やかに見えていても、それは彼らが感情を圧し殺してしまっているためであるかもしれず、内面は決して穏やかではないことの方が多いのではないかと私は実感しています。
そういう苦しい生活を送っていることは理解できるのですが、彼らは本当には苦しんでいないという矛盾をも私は感じています。本当に苦しむべきところを回避して、別の苦しみに晒されていると言うべきでしょうか。私はそのように感じることがあります。
本当に苦しむべきところというのは、簡潔に述べれば自己形成に伴う苦悩であります。彼らがそこに踏み出すことができれば、「治療」はほぼ成功したと言って差し支えないと私は考えております。ただし、そこに踏み出した後、彼らは本当に苦悩するようになるので、そこは長期にわたってサポートする必要があるということも強調しておきます。
さて、Fさんの事例は第1ラウンドを終えました。次項より、第2ラウンドに入っていくことにします。第2ラウンドにて、Fさんは感情的にも大きく揺さぶられることになりますが、そのような経験を通して、徐々に自分の感情に対処できるようにもなっていくのです。うまくお伝えできるかどうか自信はありませんが、お付き合い下さればと思います。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)