<テーマ148>自我親和性から自我異質性へ(2) 

 

(148―1)変化の前に自我異質化の過程を経る 

(148-2)クライアントが自ら異質化を始めていくこと 

(148-3)異質化に伴う恐れと葛藤 

 

(148―1)変化の前に自我異質化の過程を経る 

 人にはそれぞれその物の見え方、考え方、捉え方、反応の様式など、その人独自のパターンがあります。その人にとって、そのように見える、考える、反応するといったことは、いわば当人馴染のある現象なのです。当人にとって馴染になっている事柄は、その人の自我にとって親和性を帯びているという意味で、自我親和的な事柄であると表現することができます。 

 それが自我親和性を有している限りにおいて、その人はそれに対して反省することもなければ、それを変えていこうという意欲や動機づけもなかなか生じないものです。それはその人にとっては、そうすることが当たり前のことであり、変えていかなければならない必然性が感じられないからです。 

 それが当人にとって不都合をもたらしているとすれば、それは変えていく方が望ましいということになります。ところが、変えていく方が望ましいということが分かっている一方で、それが自我親和性を有している限り、当人にとって変えていくこともなかなか困難なことなのです。 

従って、それが変化していくためには、それが自我親和的でなくなり、自我異質的になっていくという過程を経ることが不可欠なのです。変化が生じる前にそのような段階を経なくてはならないのです。自我異質的になるというのは、それが自分にとって当たり前で、自然で、尚且つ正しいと信じられていたけれど、どうもそうではないようだと自ら気づくという体験のことであります。 

 日常の生活においても、私たちは自分の中の何かが自我異質化されていくという経験をすることがあります。大きな失敗をしてしまったりとか、何かに気付かされたりするような体験などを契機として、それが生じることもあります。こうしたことはとても人間的な過程、体験であるわけで、何も特殊な事柄ではないと私は考えています。 

 でも、カウンセリングにおいては、しばしばそういう体験が頻繁にクライアントに見られるのです。それはクライアントが自分自身について取り組んでいく中で、自分自身や自己の問題に対して洞察と自己理解を深め、心が自分自身に対してそれまでとは違ったアプローチをとるようになるからであります。 

 変化の前に、自我親和的な事柄が自我異質的になっていく必要があるということが本項の趣旨であります。そして、自我異質化はその人のその後の変化の基礎になるという考えがここには含まれています。 

 

(148―2)クライアントが自ら異質化を始めること 

 まず、ある親和性を帯びた事柄が自我異質化する時、そこには発見の驚きや恐れといった感情が伴うことが常です。後で述べるように、これはクライアントにとっては少々辛い体験となるかもしれません。その前にまず述べたいことは、これはクライアント自らが達成していかなければならないという事実であります。 

 例えば、あなたの身近な人で、あなたから見て間違った考え方をしているという人を思い浮かべてほしいのです。あなたはその人に対してその考え方は間違っていると指摘するかもしれません。なぜ、あなたがそうするかと言えば、指摘してあげれば、その人が気づいて、その人自らが考え方を改めてくれるだろうという期待があなたにあるからだと思います。そして、これはしばしば、と言うよりは、全く成功しないやり方なのです。なぜなら、その人にとって、その考え方には親和性があり、馴染があり、正しいものと信じられているからです。 

 ここで、その人の考え方を変えようと試みるあなたはその人からたいへんな抵抗を受けることでしょう。あなたはその人のことを「なんて分からず屋なんだ!」と思うかもしれませんし、「なんて頑固な奴だ!」と思うかもしれません。でも、人は誰でもそういうものだと私には思えるのです。親和性を帯びている事柄に対して、外側からそれが間違っていると指摘されることは、それを抱える当人にとっては反抗心を掻き立てられる事態なのです。 

 親和性を帯びている事柄は、その人にとっては自然なことであり、正しいことでさえあると体験されています。そこを変えようとする働きかけはどんなものであれ、激しい抵抗に出会うものなのです。その抵抗の激しさは大抵の人の想像を超えているものなのです。そこは多くの人が理解していない部分であるように私は思うのです。 

 ところで、いささか余談なのですが、認知療法や論理療法はこのプロセスをかなり積極的に推し進めていくというイメージが私にはあります。実際、アルバート・エリスの逐語録などを読んでいますと、エリスとクライアントとの間で闘争が起きているかのような場面に遭遇するのです。エリスは積極的にそこを異質化しようとしているのですが、クライアントが必死になって抵抗している姿が私には見えるのです。その抵抗を、エリスは論理的に、また強く説得するような感じで克服しようとしているように私には見えるのです。そして、このことが、最終的に認知療法や論理療法に私がついていけないと感じた点だったのです。おそらく私の性格的な面も関係しているのでしょうが、私はそこまで積極的にこのプロセスを推し進めることに対しては気が引けてしまうのです。 

私の考えでは、クライアントが自ら、そして自然に、このプロセスに入って行くことができる方が望ましいということなのです。つまり、クライアント自ら「それが私にとって自然なことだったけれど、そうではないような気がしてくる」と徐々に気づいていく方がいいということなのです。臨床家の仕事の一つは、クライアントがその過程に踏み切る手助けをすることだと私は考えています。時間はかかるかもしれませんが、その方がお互いに安全で、いい関係を維持しながら作業が続けられるように私には思われるのです。 

 そのようにクライアントの内側からそれが生じていく必要があるわけです。そして、その方が安全だと言うのは、それを外側から教えたり、説得したりしても、クライアントにとって、それは攻撃であるとか強制であるとかいうように体験されることも多く、また、それに耐えられないという人も少なくないからなのです。 

 

(148―3)異質化に伴う恐れと葛藤 

 前節で述べたことは、当人自身「それがおかしい」というように体験されていない事柄(自我異質化されていない事柄)を周囲が変えていくことはとても困難であるということでした。そのことはそれほど想像に難くないかと思います。もし、そのようなことが生じているとすれば、それは単に「人からそう言われたので、そのようにしているだけだ」という程度のことでしょう。それは変わったという演技をしているようなものであり、指摘した人の目が届いている間だけの変化であり、その人の内側は何も変わっていないことでしょう。 

 ある事柄の自我異質化というのは、繰り返しますが「私にとってそれが当たり前のように思われていたけれど、それがどうも間違っているようだ」と気づき始めるということです。時に、それは自分の間違いを見せつけられるような体験となることもあり、恐れや恥辱感、罪悪感を伴ったりする体験となる場合もあります。実際、自分の過ちをそのまま受け入れる強さを有している人はそれほど多くないもので、この時、どうしてもそれを認めたくないという気持ちが生じることの方が自然なことだと思います。 

 従って、その時にクライアントにしばしば過去の古いパターンにしがみつきたいという気持ちが生じるとしても、何も不思議なことではないのです。それがどれほどの不都合を当人にもたらしているにしても、自分の間違いを受け入れるよりも、馴染のあるパターンを維持したいという気持ちが生じてしまうのです。その方が安全に感じられるのです。 

 そこで、過去に親和性のあったパターンにしがみつくために、カウンセリングのような作業を放棄してしまう人も残念ながらおられるのですが、そのようなクライアントであれ、やはりそこには葛藤があるのです。この葛藤は、恐らく、この段階に差し掛かったクライアントすべてが経験するものではないかと私は信じています。 

 その葛藤とは、こういう類のものです。「私はそれが正しいと信じていたけれど、どうもそうではないということが見えてきた。でも、それを認めるということは自分の間違いを受け入れることを意味しており、それは耐えられない。だからと言って、それを維持してしまうことも問題があることが見えている。変えたいけれど、変えたくない」というような葛藤なのです。 

 この葛藤において、折れそうになるクライアントをいかに支えるかという点に臨床の本質があると私は考えています。この葛藤は、第三者から見ればそれほどたいへんなことのように見えなくても、クライアントにとっては耐えられない類の強度を有しているものなのです。 

 ある男性クライアントは周囲に対して敵意を剥き出しにしていましたが、その彼がある時、この敵意が正しいものではないということに気付き始めたと言及したのです。その後、数回の面接は、この気づきを支えるということに費やしました。彼は、もしそれが正しいものではないということを受け入れると、これまでの人生がすべて否定されてしまうかのように思われると語りました。つまり、それを受け入れてしまうと、「お前は今まで間違った生き方をしてきたのだ」ということを突きつけられてしまうかのように彼には感じられるのでした。 

 彼のその恐れは理解できるものです。区別しておきたいことは、彼にとって親和的であった信念が否定されるべきであって、彼個人の人格や歴史が否定されているわけではないということです。そして、彼にとって望ましくない信念が否定されているとしても、ここではより望ましい信念が肯定されているのです。ただ、それに代わる望ましい信念というものがここではまだ彼の中に芽生えていない状態なのです。私は彼にそれが芽生えるまで付き合うつもりでいましたが、彼の方がこの状態に耐えられないと言って、カウンセリングを離れて行ったのです。非常に残念で、悲しい終結でした。 

 自我親和性を帯びていた事柄が異質的に体験される時、それはクライアントにとって痛みを伴う体験となり、葛藤を伴うということを述べました。しかしながら、この異質化の作業はその後のクライアントの変化の基礎と動機づけにつながることなので、臨床家としてはそこを支持しなければならないのです。 

ここまでお読みになられて、疑問に思われた事柄も多々あるでしょう。どうして、多くのクライアントはそれに耐えられるのか、そんな苦痛の多い作業をどうしてわざわざ続けるのかといった疑問です。それらに関しては、私は「洞察」のテーマと「ラポールと転移」のテーマで述べていく予定をしておりますので、ここではそれに触れないでおきましょう。ただ、誤解を避けるために申し上げておきますと、こうした文章で読む限りではそれがいかにも大きな苦難を伴うかのように見えるかもしれませんが、現実の場面においては、むしろ穏やかにこういうプロセスが進行していくことの方が多いということをここで述べておきます。 

 ここまで、本項において、私は自我異質化のプロセスはクライアント自ら始めていく必要があるということ、そのプロセスが開始される時にはクライアントが様々な感情や葛藤に襲われること、臨床家はその時のクライアントを支持する必要があるということを述べてきました。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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