12年目コラム(22)意味論(2)

 言葉というのは、少し変わるだけで相手に伝わるものが変わってくる。その場の状況や関係の在り方、さらには非言語的メッセージやメタメッセージなんかがそこに入り込んでくるので、自分の伝えたいことを正確に相手に伝えることというのは、本当に難しいことだと思う。
 コラム17で取り上げた、親に暴力を振るった娘さんの事例を思い出してみよう。あの父親の言葉は、娘には正確に伝わっていないし、娘にはまったく違った意味として届いてしまったように思う。父の発したメッセージと娘の受け取ったメッセージはまるでかけ離れている。そのためだろう。お互いに何が起こっているのかが理解できず、ただ混乱していたと僕は思う。
 僕たちは言葉や行為を通して他者とコミュニケートするが、それは意味を伝えていることでもある。この意味は正しく伝わることもあれば、歪んで伝わることもあり、時には矛盾した意味合いが伝わってしまう。
 何が伝わるかによって、相手の反応も異なってくる。僕たちは相手の反応を見て、初めてこちらがどんな意味のことを伝えたのかが分かるものである。同時に、相手もどんな状態であったかを知る手がかりも得られる。

 意味を取り上げるということは法則性を超えるということである。僕はそのように理解している。
 例えば2つのリンゴのある所に、もう1つリンゴを加えると、ここには3つのリンゴがあることになる。オレンジ2つの所にもう1つ追加すると、ここには3つのオレンジがあることになる。また、イチゴが2つあって、そこにもう1個追加すればイチゴは3個あることになる。
 ここにはすべて2+1=3の法則があるわけである。それがリンゴであろうとオレンジやイチゴであろうと、すべてこの法則が適用されているわけである。言い換えれば、この算数の法則はどんな対象にでも該当し、対象の種類は考慮される必要がないのだ。
 しかし、意味を取り上げるということは、そうした法則性を副次的に見ることである。2+1=3の法則性ではなく、なぜ最初はリンゴであったものが、次にはオレンジになり、最後はイチゴになるのか。リンゴとオレンジとイチゴのそれぞれの違いはなにか、リンゴからオレンジへ、オレンジからイチゴへの展開はどういうことを指しているかといった問いが主題となるということだ。

 クライアントはしばしば以前にも話したことだからと言って省略しようとする。僕は繰り返しになってもいいから話してみてはと勧める。繰り返し話すことも必要なことであるが、前回と同じ話であっても、前回と同じように話すとは限らないのである。
 例えば、最初は「また、夫に殴られました」と語った女性が、二度目には「あの人に暴力を振るわれました」と話す。さらに三度目には「また、起こりました」と話す。彼女は同じ状況を話しているのかもしれないが、その意味している所が異なっている。以前にも話題にしたから、ある程度理解されているものとして省略された可能性もあるのだけど、回を重ねるほどに具体性がなくなっているのがわかる。
 また、抑うつの激しい人が、以前は「死のうと思った」と述べていたのに、今回は「死にたくなりました」と言う。この人自身は同じ感情体験を語っているかのように認識されていたかもしれないが、前回と今回とでは、明らかに違ったことを言っていることが分かる。もう少し付け加えれば、前回と今回とでは違った体験をしているのであり、その体験の差異が言語表現の差異として現れているのだ。そして、この違いは前回から今回までの間にもたらされたものであり、その人の中で生じている変化なのだ。
 前者のDVも後者の自殺念慮も、当人には同じ法則に従って生じているように映るかもしれない。それは、ちょうど2+1=3を見ているようなものだ。リンゴとオレンジとイチゴの差異の方は見ることができていないのだ。意味に目を向けるとは、この差異を積極的に見ていくことなのだと、僕はそう考える。

文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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