<テーマ137>「書き手」の憎悪 

 

(137―1)得体の知れないもの 

 インターネットの掲示板なんかになされる書き込みについて、いろいろと述べてきました。 

 前にも述べたように、私はそういうのをどうやって閲覧したらいいのか分かりませんでした。私のことが書き込まれているということもクライアントから教えてもらったのですが、それを見る術を知りませんでした。本当に偶然にそれを見つけたのです。 

 そういう掲示板の世界があるということは話としては聞いて知っていたのでしたが、実際に見てみると、まあ、ひどい世界もあるものだなと思いました。 

 それ以来、私に対しての書き込みであれ、その他の人に対する書き込みであれ、いろいろと見て回って、そこで感じたことや考えたことなんかを綴ってきているのです。それらはすべて私の個人的な見解であります。もっと違ったように考えることもできるでしょうし、もっと正しい見解というものがあるかもしれません。でも、私は私に述べることができることを綴るだけです。 

 その手の書き込みを見ていく一方で、私は周囲の人にもいろいろ訊いて回りました。多くの人がそういう書き込みを、直接的にしろ間接的にしろ、体験されているのでした。このことは私にはとても衝撃的でした。 

 さて、私がそうして尋ねてまわった知人たちは、みな揃って、ああいう書き込みは読んでいて不快だとおっしゃるのです。イヤな気分になると言うのです。それは私も同感なのです。自分の知らない所で自分のことが槍玉に上げられているというのは確かに不快な体験であります。でも、不快感はそれだけではないように思います。他の人に対しての書き込みなんかを見ていてもやはり不快感を覚えるからです。 

 この不快感とか、読んでいてイヤな気分になるとかいうことは、一体どういう現象なのでしょうか。書き込みの何かに私たちの内面の何かが反応しているということは確かです。でも、何に対して反応しているのか、そこがはっきりしなくて、曖昧なのだと思います。だから、それを言葉にしようとすると、何となくイヤな気分になるとか、不快だとしか言いようがないのだと思います。 

 私もまたはっきりしないものに心を掻き乱される思いを体験しました。どうにかしてこのはっきりしないものの正体を突き止めようとしたのですが、どうもはっきりしないものははっきりしないままなのです。 

 だから不明瞭なまま述べざるを得ないのですが、書き込みを読んでいて、私が得体の知れないような不快感を体験する時、それはその書き込みに表現されている残酷性に反応しているのだと思います。それは生々しいほどの残酷性で、読んでいて、それに直面させられてしまうと言うのか、あたかもそれが私に突きつけられるかのように私は体験しています。 

 その残酷性というのは、「書き手」に属するものです。「書き手」はそれを生のまま提示することもあれば、文章の節々にそれが見え隠れするというような場合もあります。時には、辛辣な皮肉や侮蔑の形で見せつけられることもあります。さらに、もっと微妙な仄めかしとして表されていることもあります。私はその残酷性を見せつけられて、非常に恐ろしいと体験するのです。 

 しかも、それがパソコンの液晶画面から、無機質な液晶画面を通じて飛び込んでくるので、一層、非人間的なものとしてそれを感じるのです。私はそういう体験をしています。もちろんそのように体験するのは私だけかもしれませんし、他の人は違ったように体験している可能性もあるでしょう。 

 書き込みの妥当性というものはここでは問わないのです。つまり、「書き手」の書き込んでいる事柄が正しいとか間違っているとかいう問題ではないのです。正しい場合だってあるでしょう。そういう書き込みの内容にではなく、そこで表現されている、あるいは暗に仄めかされている、残酷性に、剥き出しの憎悪に、私は恐ろしいと体験している自分を見出すのです。 

 

(137―2)付き纏う憎悪 

 確か、カントがこういうことを言っていたのを何かで読んだ記憶があります。悪とか残虐性とは、他人を傷つけ、虐げて、それで喜びを得ることだと言うのです。言い換えると、他人を傷つけて満悦する人、喜んで人を苦しめる人のことなのです。それが悪だということなのです。 

 私はそれを読んでひどく納得したのを覚えているのですが、どこで読んだのか覚えていないので出典を示すことができないのを残念に思います。 

 それはさておき、ここで一つの問題が浮かんでくるのです。「書き手」は書き込むことで満足を得ているのだろうかという問いであり、もし満足を得ているのだとすれば、それはどんな種類の満足だろうかという問いであります。 

 「書き手」はもっと軽い気持ちで書き込んだかもしれません。でも、それはほとんど重要なことではないのです。いじめの問題にしても、いじめる側はちょっとからかったとか、そういう理屈を展開するものです。でも、いじめられる側が追い込まれるのは、そういういじめる側の行為ではなく、いじめる側が露わにしている残虐性に追い込まれるのだと私は捉えております。いじめる奴にやり返せとか、いじめられたらいじめ返せなどと言う人がいるとすれば、その人は事態の半分も見えていないのだと私は考えています。いじめる人間が怖いのではなく、いじめる人間が剥き出しにして示しているものが怖いのだと私には思われるのです。いじめられる側はそれに反応して、追い込まれてしまうのではないだろうかと私は考えるのです。 

 書き込みによる中傷で自殺してしまった人がいるそうです。書き込まれたくらいで死ぬなんてとか、書き込みなんか無視すればいいのにとか、そのように考える人もあるでしょうが、それも先ほどの話と同じで、事態の半分も見えていないのだと私は思います。人は中傷されたり、書き込まれたくらいで自殺することはないでしょう。その人が苦しんだのは、書き込みの内容そのものではなく、その書き込みにおいて、書き手の示しているものに追い込まれたからではないかと私には思われるのです。 

 剥き出しの憎悪を執拗に投げつけられるということが、どのような体験であるかを本当に理解できている人は少ない。私はそう思うのです。生のままの残虐性に直面させられてしまうということがどのような体験であるか、実際に体験しなければ分からないことだと私は思うのです。そういう体験をしたことがない場合、想像してみることさえ難しいことだと思います。 

 私はその体験をどうやって言葉にすればいいかでずっと悩んできました。上手く言えないのです。剥き出しの憎悪だとか生のままの残酷性だとか、そういう表現をしていますが、これらでさえも読んでくれている人には正確に伝わらないのではないかと危惧しております。 

 私たちは生きていると、多少は人から嫌われたり恨まれたりすることもあるでしょう。でも、そういうものとはまた違ったものなのです。憎悪や残酷性が剥き出しというのは、その人の社会化が不十分なためなのだと私は捉えています。だからもっと生々しくて、非人間的な感情をぶつけられているような感覚を私は覚えるのです。 

 それを私の目の前でなく、どこか遠方から、インターネットを通じて、私に投げかけられているわけです。そして、それは執拗に私(読み手)に付き纏い、私の中に君臨し続けることになるのです。それが私の中に君臨し続けるということは、言い換えると、それは私に同化できないということであります。つまり異質な何かが私の中に投げ込まれたかのような体験なのです。私はそれに対して拒絶反応を起こしているのです。それを追い払おうにも、それは一方的に私の心の中に入り込んできており、私の中を掻き乱しているのです。読み手が体験するのは、このような苦しみではないかと思うのです。「書き手」の憎悪や残虐性が読み手の内面で暴れまわるわけであります。書き込まれた内容が掻き乱しているのではないと私は捉えておりますし、実際、私の体験したことはそういうものでした。 

 

(137―3)追い込まれる「読み手」 

 読み手は書き込みの内容そのものに反応するのではなく、「書き手」が表現している残酷性に反応してしまい、それが読み手を追い込むのだということを述べてきました。 

 社会化されていない憎悪、剥き出しの残虐性に晒された時、人が体験するのは恐怖であります。残酷ないじめの手口がニュースで報道されていたのを聞いて、それだけでひどく動揺してしまったという人も私は知っています。人間が心の底深くに抱えている残虐性を剥き出しに見せつけられるということは、たとえそれが自分に向けられたものではないとしても、恐ろしいものなのです。 

 そして、それが他ならぬ自分自身に向けられた時、恐怖感はとても大きなものとなるのです。自分が憎悪を向けられている、それも人間から憎まれるのならまだましなのだけれど、非人間的なツールで非人間的な感情をぶつけられるような体験をしているわけなので、その恐怖感は計り知れないものとなるのです。 

 おまけに「便乗屋」が出てくる。この「便乗屋」に関しては次節で説明することにしましょう。こうして、その人は多くの人から剥き出しの憎悪を向けられてしまうのです。 

 こういう憎悪に晒されてしまう。読み手にとって、それは自分が人間であるという感覚を失わせるものだと私は捉えています。いきなり飛躍したように感じられるでしょうから、ここは少し説明しなくてはならないでしょう。 

 多くの人が自分に対して中傷の書き込みをしているのを見てしまう。これはその読み手の存在の基盤を揺るがす体験をもたらすのです。多くの目に見えない相手から攻撃されるわけであります。この攻撃は、読み手をして人間としてのつながりを喪失させようというふうに働いてしまうのです。つまり、読み手は一方的に疎外されるような体験をするのです。私はそのように思うのです。 

 「書き手」は剥き出しの憎悪を突きつけることで、読み手を非人間化するのです。この憎悪は相手を徹底的に破壊しようとするものです。 

 そういう書き込みに晒されてしまうと、読み手にどのようなことが起きるだろうか。私の場合、会う人会う人、すれ違う人に対して、いちいち、この人はそういう書き込みをする人かもしれないと疑い、警戒してしまうという時期がありました。つまり、他者に対してひどく不信感を抱き、警戒してしまっているのです。そして、これは私の人間としての連続性が脅かされているということなのです。自分も同じ人間なのだという確信が揺らぐのです。これが存在の基盤を揺るがすということなのです。読み手の中でそういう現象が起きてしまうのではないかと私は捉えております。 

 読み手は書き込みやそこで持ち込まれてしまった残酷性を自分の中に同化することはできないのです。それは異質なままでなければならないのです。もし、それに同化してしまうということは、自分が恨まれる人間であるということをそのまま受け入れなければならなくなるからです。読み手も人間である以上、自分を守ろうという動きを示すものです。それを同化してしまうということは、自分が人間でなくなるということに等しいのです。自分が非人間化されることを引き受けてしまうということになるのです。読み手が抵抗するのはその部分なのだと思います。 

 従って、読み手にとって、それは絶対に同化できないものなのです。同化してはいけないものなのです。それはずっと異質なままでなければならないのです。こうして、読み手は一方的に心の中に踏み込んできた異質なものを抱えて生活しなければならなくなります。読み手は異質なものを抱えたまま、安住しえない境地にて生きていかなければならなくなるのです。 

 そのような状況で生きていて、最後は自殺してしまったとしても、私には何も不思議なことではないように思われてくるのです。この自殺は、「書き手」が持ち込んだものを同化したわけではなく、尚且つ、自分が一人の人間であるという感覚を維持するための最後の手段なのだと思います。読み手は自殺することによって、「書き手」の思惑に打ち勝つのだと私は考えるのです。 

 これはあるクライアントから聞いた話ですが、昔いじめた相手をさんざん中傷して、自殺に追いやったという人があるそうです。いじめられていたその人は勝ち誇ったように書き込んでいたということなのですが、私から見ると、勝利したのは自殺したいじめっ子の方で、相手を自殺に追いやったその人の方が敗北しているのです。なぜなら、相手は自殺することによって、その人に屈服しなかったからであります。 

 

(137―4)「便乗屋」について 

 話を先に進める前に、先述の「便乗屋」について説明しておこうと思います。「便乗屋」とは私が勝手にそう名付けているだけなのですが、要は、誰かが書き込みをすると、それに便乗して書き込みをする輩のことであります。 

 私に対する書き込みにもそれがあります。「書き手」がそれを書くのは、まだ話が分かるのです。その「書き手」は実際に私と会った人だからです。でも、その「書き手」の書き込みに便乗して私に対しての書き込みをしている人たちが大勢いるのです。それが「便乗屋」です。 

 この「便乗屋」は私とは面識のない人たちでしょう。誰かが毒を吐いていたら、それに便乗して自分の毒を吐いているというような人たちではないかと私は捉えております。 

 では、なぜこういう「便乗屋」が出てくるのかということですが、私は次のように考えております。 

 まず、前提として、人は自分の内面にある事柄を実現しようとする傾向があるという事実を述べておかなければなりません。もし、私が空腹であれば、私は何か食べたいという欲求を抱くでしょう。この飢餓感は私の内面において体験されている事柄であります。そして、私は現実に何かを食べるという行為に向かうでしょう。こうして、何か食べたいという欲求は実現されることになるのです。 

 今のは単純な例ですが、自分の内側にある欲求や衝動、あるいは感情なんかは、実現しようと、あるいは表現しようとするものなのです。だから自己実現などという言葉が出てくるわけであります。 

 私が空腹を体験していて、何か食べたいという欲求を抱えているとします。この欲求が激しければ激しいほど、私は何でもいいからその辺にあるものを手当たり次第に食べるでしょう。その場合、何よりも飢えの苦しみから解放されることが肝心だからであります。食べ物の嗜好なんかは二の次で、まずはこの飢えの苦しみを緩和しようとするでしょう。 

 もし、ある人に憎悪の感情があるとすればどうでしょうか。恐らく、その人はその憎悪を何らかの形で実現してしまうでしょう。つまり、憎悪の対象を見出すでしょう。その憎悪が激しければ激しいほど、相手は誰でもいいということになるでしょう。それは空腹が激しくて、何でもいいから食べるというのと同じ現象だと私は思うのです。 

 憎悪感情が激しくて、何よりもこの憎悪を緩和することが肝心だということであれば、その人はとにかく相手を探すでしょう。そこで誰かが槍玉に上げられてるのを発見すれば、それは空腹時に食物を見出したようなもので、そこに便乗するでしょう。「便乗屋」とはこういう人たちではないかと私は捉えています。 

 憎悪の問題はとても複雑なものです。自分が誰に対して、何に対して本当に憎悪しているのかが意識できていないと、もっと性質が悪くなるのです。その人は常に憎悪する対象を求めてしまうからであります。だから恰好な相手を見つければ、だれかれ構わず噛みついていくだろうと思うのです。この時、その人は自分の憎悪を統制できていないのです。むしろ、その人はそれに対して無抵抗で、憎悪感情に指導権を譲ってしまっているのです。 

 そして、その憎悪はその後も引き続きその人の中に君臨し続けることになるのです。その人は自分の憎悪をどうにも処理することができず、それに振り回されることになるのです。私はそのように考えております。 

 読み手は、「書き手」が剥き出しにしているものに直面させられるだけでなく、こうした「便乗屋」が剥き出しにしているものにも直面しなければならなくなるのです。こうして、一人の書き込まれた人間は、複数の「書き手」からの集中攻撃に晒されてしまうのです。読み手がそれに追い込まれて、自殺してしまったとしても、前述したように、それは「書き手」の勝利を意味しないのです。むしろ、私にはそういう読み手に殉教者のようなイメージを覚えるのです。読み手は自分の信念を守るために死を選んだのだというように見えるのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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