12年目コラム(20):因果関係論(3)
ちょうどこのコラムで因果関係のことについて考えていることを書いてみようかなと思っていた矢先に、因果律にガチガチに囚われているようなクライアントと面接した。生きているとこういう偶然的なことが起きるものだ。だから生きていることは興味深い。
その人は原因が分かれば対策が立てられると、そう考えておられた。それは間違いとは思わないけど、原因を究明することで立てられる対策なんて、たかが知れていると僕は考えている。
例えば、これはけっこう一般的に見るのだけど、原因を究明して、その原因を除去すれば上手くいくと、そのように考えられるのだ。それで上手くいく場合もあるだろうけど、もし、それが除去できない性質のものである場合、どうなるのだろうか。
また、その原因は当人に受けいれることのできるものでなければならない、という例も多い。自分の認識範囲にない「原因」は原因として認められないか、否認され、却下されたりする。つまり、自分の許容範囲の「原因」しか扱えないわけである。
もしかすると、原因が(あるとしての話だが)その人の認識範囲を超えた所に存在しているのが明白なのに、原因を探し求め続けてしまうという事態が生じているかもしれない。その人は自分が受け入れることのできる「原因」を、自分が納得できる「原因」というものがどこかにあると信じて、延々と原因探しをしてしまうことになる。案外、これをやっている人も多いものである。
確かに、人間に生じる諸事象には「原因」があるかもしれない。ただ、その「原因」は当人に思いもよらないものであるかもしれないし、評価する人によっても違ってくると思う。
あるギャンブル依存のクライアントは、どうしてギャンブルをしてしまうのか分からないという。つまり、ギャンブルにハマってしまう原因なり動機なりが自分でも分からないと言うわけだ。どこかに「原因」はあるかもしれない。敢えて言えば、彼が実存していないからギャンブルをするのだと、僕にはそのように思われる。彼は非存在になるためにギャンブルをするのだ。彼の抱える非存在への退行傾向がギャンブルの原因ということだ。当然、こんなこと、いきなり言っても彼には理解できないことであった。そして、最後までそれが理解できないでいた。
では、その原因を知って、彼はどうにかできるだろうか。僕は「原因を知れば対策が立てられる」というのは幻想のようなものだと考えている。そういうことが言える領域もあれば、そうでない領域や分野もあるだろう。後者の方が多いという気もしている。
原因を知って、そこから立てる対策はあくまでも過去の原因に作用するものであって、現在の「結果」に働きかけるものではないはずである。だから「親のせいで(原因)私がこうなった(結果)」という因果関係を形成した例では、その対策はもっぱら「原因」に関わることになり、現在の親をどうこうするといった方向に走ってしまうわけだ。
原因が分かっても、何も変わらないかもしれない。自分自身に起きたことをきちんと理解しようとするなら、そうした因果関係を見ることも有益かもしれない。それでも、原因を知ったからと言って、何かを変えることができるというものは少ないだろう。
また、原因探しをするということが、イコール「悪者探し」という人も少なくない。誰が悪かったのか、誰の何が間違っていたのか、そこだけを追求するような人たちだ。この人たちが、周囲の人から原因となった「悪者」を見出す時、大抵の場合、当人の無意識な心理的投影物を見ていることが多い。いつ如何なる場合でもそうだと断言もできないけど、けっこう、そういうことが多いようには思う。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)