<#007-24>臨床日誌~共感覚論(2)
人間にはいくつもの感覚器官がある。僕たちはそれぞれの感覚器官を用いて日常生活を送っているわけだけれど、各々の感覚器官は単独で機能するのではなく、全体的に協働する。その点に関して述べようと思う。
例えば、美味しい料理を食べる場面を考えてみよう。これをお読みの方もご自身の体験と照らし合わせて欲しいと思うのですが、美味しい料理を美味しいと味わうのに、どれだけの感覚器官を働かせているだろうか。
まず、料理の味ということなので、味覚がある。この味覚が主要感覚器官と言えると思う。
しかし、味だけでなく、風味といったことも重要である。いくら味が良くてもケッタイな匂いがするというのでは、美味しく思えないでしょう。従って、料理を美味しいと感じるには臭覚も働いているということになる。
見た目はどうでしょうか。味や風味がよくても、美味しそうに盛り付けられていなければ美味しいと感じられないかもしれない。そういう意味で視覚もまた重要であり、おそらく、視覚も働いているのだろう。
聴覚はどうか。僕は影響すると思っている。僕が朝食を食べる時、両親がテレビをつけているのだけれど、そのテレビの音がやたらと大きく感じられる時がある。そういう時は味があまり感じられないのだ。味覚障害かと思ってしまうのだな。それで別室に朝食を運んで、静かなところで食べてみる。すると味が戻ってくるという経験をする。これは味覚を働かせなければならない時に、聴覚が過剰に働いてしまうためだと僕は解釈している。味覚がメインにならなければならない状況で聴覚がメインになってしまって、味覚の方がサブになったという気がする。食事は騒音の場では美味しく感じられないものだ。BGMもデスメタルなんかより(それが好きだというなら別だけど)、心地いい音楽の方がいいわけだ。
皮膚感覚、温感はどうだろう。猛暑や極寒の中で食べると美味しく感じないのではないかと思う。真夏の炎天下で弁当を食べたことがあるのだけれど、早く食べ終えることばかり考えて、味なんて味わう余裕がなかったという経験を僕はしたことがある。暑すぎず、寒すぎず、適度な温度でないと美味しいという体験もできないように思う。
皮膚感覚に関して、痛覚もまた影響する。これも僕の実体験である。足が痛い時、それも激しく痛い時は、食欲も湧かないし、食べても美味しいと感じない。手術の翌朝にも同じような経験をした。痛くて痛くてたまらないのに朝食が運ばれてきて、無理して食べたけれど味なんて分からなかった。
内臓感覚もまた重要だ。満腹になると美味しく感じられなくなるという経験をしたことがあると思う。二日酔いで胸やけしている時には、たとえ空腹感があっても、美味しく食べることが難しいのだ。それで味を濃くしてしまったりという悪循環をやらかしてしまったりする。内臓感覚もまた重要であり、影響があると言えるのではないか。
その他、まだまだあるだろうと思うけれど、一旦、これくらいにしておこう。
美味しい料理を美味しいと知覚するということ一つ取り上げても、そこには味覚がメインになっているとは言え、さまざまな知覚器官が作用していることが分かるだろうと思う。
実際に、オレンジ色に着色したリンゴジュースを被験者に飲ませると、被験者がビックリするという実験がある。視覚としてはそれはオレンジジュースなのである。被験者は視覚情報からすでにオレンジジュースを味わっているのだ。その期待が裏切られるからビックリするわけである。視覚は味覚にも連合的に作用しているということである。感覚器官はそれぞれつながっているのである。人はみな共感覚的であると言えるのではないか。
僕は音楽が好きだ。当然、聴覚で音楽を聴いている。しかし、聴覚だけを働かせているかというとそうではない。
例えば、曲を構成しているさまざまな音がある。音が硬いとか柔らかいとか、音がとんがっているとか丸いとか、音が軽いとか重たいとか言うことがある。温かい音とか冷たい音といったことを言うこともある。こうした言い回しは比喩的なものであるけれど、僕たちはそれを理解することができる。そして、例えば音が硬いという時には、触覚的にそれを知覚するわけではないけれど、硬さが感じられたりする。
曲を聞いて情景が思い浮かぶこともある。それは視覚的に見えているのではないが、音楽を聴いて頭の中で情景が浮かぶことがある。ベートーベンの「田園」では雷雨の光景であったり、ショパンの「雨だれ」ではしとしと雨が降っている情景が浮かぶかもしれない。
僕の個人的なケースでは、ベルリオーズの「幻想交響曲」の第4楽章では、映画「1000日のアン」でのトマス・モアの処刑シーンが浮かんでくる。ディキシーランドジャズのいくつかの曲では、日曜日の朝の情景が浮かんできたりする。
Aメジャーは田舎の光景が、Dマイナーは中世ヨーロッパの光景が浮かんでくるのは僕だけだろうか。
また、色には暖色と寒色がある。温かさを感じる色、冷たさを感じる色がある。たしかにそのように感じられる。もちろん、皮膚感覚として温かさや冷たさを知覚しているわけではないが、内的に温感や冷感を感じることもある。冬場の赤ちょうちんなどはそうである。まあ、これは呑兵衛だけかもしれないが。
また、梅干しを見ると唾が出るというのもよくある話だ。梅干しを見るという視覚刺激が味覚に影響を及ぼしているわけだ。あの酸っぱい味がどこかで感じられているのだろうと思う。
他にもいろいろあるだろう。一つの知覚刺激は、それに対応する感覚器官、感覚受容器を刺激するだけでなく、その他の感覚器官をも連合的に刺激すると言えないだろうか。人間の知覚・感覚は常に共感覚的であると仮定することもあながち間違っていないようにも僕には思えるのだ。
共感覚者が、この味は四角形だと言う時、この人は味覚を感じていないわけではない。この人には普通に味がするのだと思う。視覚が味覚と対等になるから混乱するのではないかと思う。しかし、味覚体験においても視覚がメインであるとすれば、混乱は生じないかもしれない。両方がメインの位置を占めると、ちょっとしんどいことになるのかもしれない。
もし、治療が必要なら、行動療法的にアプローチするのがいいだろう。味覚を味覚として体験するようにしていくといいだろうと思う。スイーツを食べて、味が星型に感じられても、それは甘いという知覚体験を、意識的に、訓練的につけていけば分化していくのではないかという気がするのだ。
もっとも、本人が困らないのであれば、治療しなければならないということでもないと、僕はそのように思う。音楽を聴いて、情景が見える方が、音楽だけを聴くよりもはるかに音楽を楽しめるように僕は思うのである。味が見えるということであれば、ただ味が味わえるというよりも、食事を楽しめるのではないかと僕は思っている。その辺りのことは後ほど取り上げることになるかもしれない。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)