12年目コラム(19):因果関係論(2)

 動機論と関係してくるが、人がどんな因果関係を形成するかで、その人のその後の行動が左右されることになる。
 例えば、雨が降って、川が氾濫したとしよう。この時、何をその原因とみなすかで、後の行動に違いが現れる。
 大雨のせいで川が氾濫したのだと考えれば、気象予報をもっと正確にしていこうと試みるかもしれない。
 いや、雨のせいではなく、堤防が脆かったからだと考えれば、堤防を強化する方向に動き出すだろう。
 そうではなく、今回の氾濫は、上流で土砂崩れがあり、水路が変わってしまったためだと考えれば、水路の整備などをするようになるだろう。
 また、自然の神がお怒りになったためにこういう事態が生じたのだと見做せば、祈祷するようになるだろう。
 あるいは、水神が腹を空かせたので、人や家屋を呑みこんだのだと考えれば、川に食物を奉納するということをするだろう。
 どの因果関係であれ、それを信じている人にとってはそれが事実であるように体験されているはずである。
 従って、ある人がある行為をする時には、その人が何らかの因果律を有している場合が多いということでもある。その因果律に則った行為をしているはずである。

 ここで人が陥りやすい誤りを挙げようと思う。僕はクライアントたちからさまざまな彼ら個人の因果律を聴く。その中で見えてきたのは次の諸点である。
 まず、一つの現象が生じるには実にさまざまな要因が同時に働いているものである。何となく当たり前のように聞こえるかもしれない。本当は原因と結果は一対一で結合することなどないのだけど、案外、それは見逃されている。
 次に、因果関係を形成した場合、本当ならそれは検証されなければならない。この検証するという作業は実に難しいものである。心理学の実験を見ても分かるのだけれど、この検証手続きは完全にはなされないのである。どこか不十分な点が指摘されたりするのである。だから、因果関係が検証される前に、その検証手続きがそれを検証するのに適切であるかどうかが検証されないといけなくなるのだ。そのためにいくつもの段階を経なければいけないのだ。
 上記のことは、要するに、個人は何かの因果関係を見出しているけど、それはきちんと検証されたわけではないということである。仮に、検証したつもりでいても、その検証のプロセスがさらに検証されなければならなくなる。こういう証拠があるからというのは不十分で、その証拠がこの現象に確かに関与しているということが証明されなければならない。
 最後に、3つ目の誤りは、因果律で捉えられない事柄を因果律で捉えてしまうということである。自分の外的な事柄に関しては、ある程度因果律で捉えることはできるのかもしれないが、自分自身や心の領域に関することは因果律では捉えきれないものである。
 例えば、「親が無理解だったから私はこうなった」という因果関係を考えてみよう。これは僕の考えでは因果律が適用できない領域に因果律を持ち込んでしまっている一例だと思う。これを検証するとなれば、まず、その人の今の状態が親の無理解によって確かにもたらされたということを証明しなければならないわけだから、それ以外の要因をすべて排除してみなければならない。他の人たちとの関係やその人個人の傾向なんかをすべて排除した上で、これが証明されなければならない。また、それと同じくらい「親の無理解」が証明されなければならない。
 さらにこれを実証しようと思えば、何組もの親子に参加してもらって、親の無理解によって子供にどういうことが生じるかを実験することになる。その実験手続きも検証され、統制されなければならないことは言うまでもないが、それはさておくとして、一つ目のグループでは親が無理解を示す。二つ目のグループでは、また違った種類の無理解を示す。三つ目のグループでは無理解を示さない。こうして得られた結果に統計処理を行って、相関係数を出さなければならない。相関係数によって、「親の無理解が子供をこういう状態にする」ということが示されるかもしれないし、信頼性を得るだけの係数が得られないかもしれない。
 もし、こうした実験によって、それが証明されたとしても、その実験結果は個人には関係がないのだ。それが証明されましたと言っても、「親の無理解でこうなった」と苦しんでいる人にとっては何の役にも立たない。せいぜい「やっぱり、私の思った通りだ」と言えるくらいであって、何も変わるわけではない。

 とりとめもなく綴ってきたが、要するに、因果関係を形成することは容易にできるとしても、その因果関係を証明することほど困難なことはないということだ。

文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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