12年目コラム(18):因果関係論(1)

 クライアントたちもそうだけれど、人はそれぞれ自分に関しての自分なりの因果関係を有していると思う。この因果関係は、困ったことに、当人には揺るがしようのない真実となってしまっている場合もある。
 因果関係というのは、ある事柄と別のある事柄との間に関連をつけるということだ。それも時間的な関係である。ある出来事が先に生じて、その結果、この出来事が生じたという関係である。大切なのはこの時間の順序であって、内容は二の次だと僕は信じている。今の自分にこういう状態が起きている、それは以前に経験したこの出来事が原因だというその時間の順序こそが重要なことであって、その以前の出来事と今の状況との関連性が厳密に証明されなくても因果関係が僕の中では成立してしまい、その因果関係は揺るぎのないものとなったりするということだ。

 しかしながら、次のことにも注意したい。僕が何を「結果」と認識するかで、その「原因」は変わってくるということだ。逆もあり得る。僕が何を「原因」とみなすかで、その「結果」とみなす事柄も変わってくるということだ。ある意味では、因果関係というのは任意で決定しても構わないという一面があると思うし、因果関係は如何様にも変えることができるということでもある。
 例えば、楽しみにしていた遠足が雨で中止になったのは、昨日、僕が悪戯をしたからだと信じている子供がいるとする。この子にとって、この因果関係は事実として体験されているのだ。雨天と個人の悪戯にはなんらの関連性もないし、相関もないことは明らかだ。無関係の二者間においても因果関係は形成できるのだ。子供はそうした因果関係を自分で作ってしまうこともあるのだ。
 しかし、それは子供に限ったことではないと思う。大人もまた同様の因果関係を自分の中で作ってしまうことがある。親に愛されなかったから自分は出来損ないになったと信じていたり(愛された経験がなければ愛されなかったということが分からないのではないかと僕は思うのだが)、これまでも何一つ上手くいかなかったから自分は何もできないと信じていたり(これも同様で上手くいったという経験がなければ理解できない体験を言っている)するわけだ。

 考え方を変えようとか、あるいは認知療法や論理療法でやろうとしていることは、本当はこの部分に関わるのだと思う。いや、カウンセリングとか心理療法といった分野はすべて自分の中の因果関係を変える試みとして理解できると思う。
 でも、僕が一番大事だと思っているのは、因果関係など作ってしまわないということだ。現象学的に出来事や体験そのものに迫る方がいいと思う。
 因果関係を作るということは、それは頭の作業なのだ。あくまでも知的な領域の話なのだ。だから「頭ではそうと理解できるのだけれど」と言って、まったく変わっていかない人たちが続出してしまうのだと思う。彼らは因果律に縛られているのだ。
 現象や経験事象そのものに迫るとは、もっと感覚的なもの、体験的なものなのだ。こちらの部分はすごく疎かにされてしまっているように思うし、因果関係の犠牲になっているように僕は思う。
 もう一つ言わせてもらうと、因果関係の犠牲になるのは他にもある。それは自分自身である。なぜなら、因果律というのは、自分の外側のことで成立するからである。その事象に自分自身が参与しないのである。自分自身を状況に参与させないために、人は因果律に縋りつくという面もあると思う。当人はそれによって、科学的に考えていると信じるかもしれないし、献身的に考えていると思い込むかもしれない。ところが、それは自己欺瞞である。因果関係を形成する時点で人は自己欺瞞に陥る。特にそれが因果律では扱えない領域に因果律を持ち込んでいる時に生じやすくなると思う。

文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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