<#016-23>「占いとは違うのですか」
<Q>
「占いとは違うのですか」または「そちらは占い師の方ですか」といった種類の質問。
<状況と背景>
開業初期の頃、数人の方からこのような問いを頂いたことがあります。今では、本サイトを読んでいただいているのか、この種の質問はなくなりました。
かつてこの質問をされた方たちに限って言えば、当センターが「占いであってほしくない」という気持ちが強かったように思います。そのうちの一人は明らかに占い師の迷惑行為を受けているということを打ち明けてくれました。彼らは占いを期待している人たちではなかったように思います。
<A>
当センターは占いではありません。また、私は占い師でもありません。
<補足と説明>
カウンセリングは占いとは関係がありません。占い師の中には、カウンセリングのようなことを並行して行っておられる方もいらっしゃるようですが、占い師のカウンセリングはやはり占いだという感じが私にはします。
私のカウンセリングもまた占いとは無関係です。もっとも、私自身は占いの「う」の字も知らない人間なので、占いをしようにもしようがないといったところなのです。
カウンセリングが占いとまったく異なる点は、カウンセリングでは個人の体験を重視していることです。占いは個人の体験よりも、その個人の運勢とか、位置などに重点を置いていると私は考えています。もっと言えば、占いでは、その人がどういう人でどういう経験をしてきたかといったことを無視しても占うことが可能なのです。カウンセリングではそれらを抜きにして行うことはできないのです。
私は過去において数人の占い師を知っております。彼らがどういうことをしているかということも私なりに理解しています。それはここでは述べないようにしましょう。彼らにも職業としての立場があるので、それを損なうような発言は控えたいと思います。
占いというのは、名前の画数を数えたり、掌の皺の配列を見たり、顔の配置を見たり、あるいは星座やカードの並びを見たりします。部屋の空間配置がどうこうというので占うやり方もあります。
どのようなやり方であれ、それは基本的に幾何学的な方法であると私は捉えております。私が占いを知らないというのは、その幾何学的な方法論に嫌悪感を覚えているからなのです。
もう少し丁寧に言うと、個人を幾何学的な配列の上に配して、その上でその個人を見るという姿勢が私は好きになれないのです。人間よりも幾何学を中心に置いているように見えるのです。もちろん、これは私の個人的な偏見に過ぎないということはお断りしておきます。
フロイトはこんな風に書いています。「訪ねてきた客の過去あるいは現在の身の上をあれこれと知っているようなふりをしてみせたあとで、夢中になって何事かをやってみせ、カードをめくり、筆跡や手相を調べ、星占いの計算をしながら、相手の未来を予言するのは、ありふれた人たち、あるいは普通以下だったりするような人たちなのです」(『続精神分析入門』 第三十講「夢と心霊術」より 『フロイト著作集』(人文書院)p417下段)
フロイトの占者に対するこの表現はいささか辛辣でありますが、私も賛成するところが多いのです。
私のかつての知人であった男性は占い師になりました。しかし、彼と付き合うと、その内にたいへんなとばっちりを食うかもしれないと思い、彼とは縁を切ったのです。フロイト流に言えば、彼は普通以下の人だったのです。
私が占いを嫌うのは、その時の彼に拠るところも大きいのですが、占い師が人を援助することはないし、占い師自身が自己成長していかない人たちだという思いが私にはあるからなのです。もちろん、これも私の偏見に過ぎません。でも、肝心な点は、そこに私の目指しているものはないということです。
ところで、占い師は人の将来を占うものです。それはあたかも、その人が今後どうなるかを占い師は知っているかのようであります。恐らく、星や運勢によって決定づけられていると占い師は言うかもしれません。
しかし、その人が今後どうなるかということに関しては、その人が何であったか(どう生きてきたか)、今現在何であるか(どう生きているか)、今後何を目指しているか(どう生きていこうとしているのか)ということの方が、星の並びなどよりも、ずっと関係が深いように私は思います。だから、自分の将来のことは他人には分からないものであり、その人自身でなければ分からないものだと私は思うのです。
もう一つ付け加えれば、自分の将来を誰かに教えてもらう姿よりも、自分の将来を手探りでもがきながら暗中模索している姿の方が、より健全な人間の姿であると私は考えています。
それに、自分の将来を誰かに見てもらうより、今の自分をきちんと見ることのできる人の方が素晴らしいという思いも私にはあります。
ところで、占いに関する私の偏見を一つだけ述べておこうと思います。あくまで私の偏見であります。
ある人が占い師として成功するかしないかは、占いの技術ではなく、占いが外れた時の言い訳の弁が立つかどうかで決まるというように私は考えています。失礼ではありますが、それはある意味では政治家と同じだとも思うのです。
それに、人は様々な場面を生きています。一日の生活の間にも多種多様の経験をします。それだけ豊富な経験を人はするので、占い師の占いに該当するような経験が一つくらいは見つかるものであります。人はそこを見て当たったとか外れたとか言ってることもけっこうあるように私は思います。
結局のところ、ある占いが当たっているのか外れているのか、本当には分からないのです。私もかつて占いに見てもらった経験がありましたが、それは的中しているのか否かの検証が不可能な内容でした。
確かに、占星学や易経、タロットなどは、象徴性に富み、それ自体優れた思想であるとは思います。私も何冊かその種の本を読んだこともあり、感心した覚えがあります。ただ、それが商業的に成り下がってしまっているのが現在の占いという感じがします。施す人も受ける人も、そうした象徴性や思想性とは無縁のところでやっているという感じがします。
長々と脈絡もまとまりもないまま綴ってきましたが、私は占い師ではないし、占いは私の目指しているものとはかけ離れたものであることは再度申し上げておきたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)