<#016-25>「アドバイスしてくれるのですか 

 

<Q> 

 「アドバイス、助言をしてもらえますか」、それに類する質問。 

 

<状況と背景> 

 こんなふうに述べる人もあるのですが、もっと婉曲的に問う人も多いのです。例えば、「カウンセラーは話を聴くだけですか」といった質問を最初にしてくるのです。それで、相手にどういうことを望んでいるのかをこちらから尋ねて、そこで助言などをしてほしいといった要望が聴かれるのであります。 

 

<A> 

 一般にカウンセラーはアドバイスをしないということが通説になっています。私はそんなことはないと考えています。むしろ、カウンセラーはアドバイスしかしない、とそう考えています。これは、アドバイスというものをどのように定義するかによるものであります。 

 仮に、アドバイスとは「人にある行為を促進させるための言語的援助」と定義すれば、「それについてもっと話してください」といった要望も助言となるわけであります。「最近、どうですか?」と問うことも、最近のことを話すよう促進されるわけですので、助言ということになるわけであります。カウンセラーの発話はすべて助言を含むものであると私は考えています。 

 しかしながら、アドバイスというものをもう少し狭義に捉えると、相手に特定の行為をするよう指示すること、と言えるでしょうか。たしかにこの種のアドバイスをカウンセラーはあまりしないかもしれません。 

 それでは、私の回答はなにかと言えば、「そんなこと気にしなくてもよい」、というものです。と言うのは、どんなアドバイスをしようと、クライアントにとっては大した意味がないことも多く、その時だけのものとなり、やがてはクライアントの方がカウンセラーのアドバイスを超克していくからであります。 

 

<補足と説明> 

 私の個人的な意見では、専門家のアドバイスほど無用なものはないと考えています。あれほど役に立たないものはないのです。「心」の事柄に関してはそれが特に顕著なのです。 

 あなたが何かを話す。私がそれに対してアドバイスをする。それがどのようなアドバイスであれ、このアドバイスは私に属しているものです。あなたに有ったものではありません。 

 それをあなたが受け入れるか拒むかは、あなたの自由です。この関係では、あなたの主体性はそこにしかありません。外から来るものを受け入れるか拒否するか、あなたができることはそれだけになりますつまり、最小限主体性しか持たせてもらえない関係となっているということです)。 

 そして、アドバイスの最も大きな害悪は、それは一方が受け取る側、他方が与える側という関係が固定してしまうことです。そこには固定された役割が形成され、お互いの自由がもはやなくなるのです。 

 あなたが私からアドバイスを求めるとします。私があなたの望むものを与えるとします。あなたからすると、この関係は「私は貰う側、あなたは与えてくれればそれでいい」ということになり、私の側からすれば「あなたは請い求める側、私は施しを与える人間」ということになるだけなのです。ここにはお互いの独自性もないのですつまり、お互いの個性犠牲にしているということです) 

 だからアドバイスというのは、こう言ってよければ、きわめて非人間的な行為であると私は考えているのです。 

 

 あなたはあなた自身からもっと学ぶことができるはずなのです。あなたがアドバイスを私に求めるとすれば、あなたは私が答えを知っていると信じているということになります。このことは言い換えると、あなたは自分の中に答えがあるということを信じていないということになるわけであります。あるいは、あなたは自分自身からもっと学べるはずであることを信じていないのであります。 

 私からすれば、一度も会ったことのない人、あまりよく知らない人の抱える事柄に対しての「答え」など持ち合わせていないのです。見ず知らずの人に助言など不可能なのです。よく新聞や雑誌などのメディアで相談コーナーがあったりします。法律や何か技術的な事柄であればまだしも、心や生に関する事柄の相談、いわば人生相談のようなものは、私から見て、けっこうひどいものも多いのです。結局、これは相談を受ける側の問題というのではなく、相手のことをほとんど知らずに物を言うからそうなるのだと思います。 

 従って、あなたにアドバイスをするためには、あなたのことを詳しく知らなければならないのであり、それが必要不可欠ということになるのです。世間一般のアドバイスがほとんど功を奏さない(と私は考えていますが)のは、この必要不可欠な過程が踏まれていないからであります。 

 

 しかし、あなたはこういうかもしれない。「私はこれこれこういう症状だから、普通はどうすればいいですか」などと言うようにです。 

 この「普通」とは、同じ問題を抱えている自分以外の人のことであることが多いように思います。私はお答えできます。ただし、その時、私はあなたのことを一切無視して答えているということをお忘れにならないようにしていただきたいのですつまり、こういうアドバイスはその人個人を無視しなければできないものであります) 

 あなたに答えている時、私はあなたではなく、あなた以外の他の人たちを見て、アドバイスをしているということです。つまり、あなたは自分のことでアドバイスを受けているように体験するかもしれないけれど、じつは、あなたのことなどまるで無視されているのであります。あなたなんか居なくてもアドバイスができるのであります(あなたは自分が無視されていることにすら気づかないかもしれません)。 

 従って、カウンセラーはアドバイスをしないという論点の根拠は、クライアントの存在を無視したくないからであります。そのように私は考えています。カウンセラーがアドバイスをするということは、その時点でクライアントを疎外していることになるので、良心的なカウンセラーはそれをしないということなのです。 

 

 でも、「カウンセラーは助言しかしない」と私は述べました。アドバイスを広義に捉えるとそう言えるのであります。ここに矛盾があるではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。 

 ただ、このアドバイスは、クライアントに対してなされるのではなく、むしろ、カウンセリングの場の構成のためや、カウンセリングの進展のためになされるのであります。時に、カウンセリングの停滞を打破するためになされることもあります。そして、次の段階に進むために、何かをするよう求めることもあります。クライアントの問題解決のためのアドバイスではなく、プロセスを進展するためのアドバイスであると言えるでしょうか。その目的とするところが異なるのであります。 

 

 さて、アドバイスに関する内容については、もっと述べたいところもあるのですが、今はここまでにしておきましょう。いずれ、カウンセリングに関するページで取り上げる予定をしておりますので、そこでより掘り下げたいと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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