12月30日:唯我独断的読書評~『ぶどう畑のぶどう作り』 

12月30日(土):唯我独断的読書評~『ぶどう畑のぶどう作り』 

 

 大学生の頃、ルナールの『にんじん』を読んでとても感銘を受けた。それで同じ作者の『ぶどう畑のぶどう作り』にも手を出してみたけれど、こちらはどうも苦手だった。 

 まとまった内容の小説を期待していると肩すかしを食う。いろんな内容、場面、随筆や箴言ふうの文章など、内容が雑多に感じられて、どうもつかみどころのない本という印象しか残らなかった。 

 当時、おそらく最後まで読んでいないだろう。処分を前提に、もう一度だけ読んでみようと思い立った。 

 

 全体は三つのパートに分かれている。それぞれ「村の便り」「エロアの控え帳」「ぶどう畑のぶどう作り」とタイトルが付されている。三つ目のものが本のタイトルにもなっている。 

 

 「土地の便り」は6つの小品より成る。 

 かつて村で育ち、今は都会パリに暮らし、時々村に帰ってくる語り手が村の人々に関する思い出などを綴るという構成になっている。 

 最初は語り手と親交のあったフィリップ家の面々だ(「フィリップ一家の家風」)。主人のフィリップとそのおかみさんの暮らしぶりだ。貧しいけど裕福への憧れがさほど強いとも思えず、生活も仕事も厳しいがそういうものとして受け止め、幸か不幸かなんてことも意に介さず、自然の中で純朴に生きている姿が描かれているように感じた。 

 いくつかのエピソードが語られる。家畜の豚を殺す時のお祭り騒ぎであったり、お金持ちの奥さんが来訪した際の社交辞令的な理由を鵜呑みにしたり、どこかほのぼのとしたエピソードが多い。中でも、深夜になると主人のフィリップが起きて外に出て、小便をするエピソードが面白い。すると他の家の主人も次々出てきては、その辺で用を足し、お喋りなんかをする。真夜中のひと時、男たちだけの時間があるわけで、そこは女たちも邪魔しないのである。ちょっとしたことが習慣になり、きっとそれがまた村や家庭の平和にも資しているのだろう。 

 その他、居眠りしてミサに出れなかったことで罪意識に襲われるナネット(「ナネット、ミサに遅れる」)、人が自分の言葉をどう受け取るかということを考えない幼馴染のロペール(「幼馴染」)、仕事をくれることをありがたがって、対価以上の仕事をして一向に暮らしぶりがよくならないオランプ(「マドモアゼル・オランプ」)、頼まれもしないのに羊飼いについてまわって仕事をし、あちこち放浪してはその日暮らしの生計を立てる9歳の少年(「小さなボヘミアン」)、貯えもなく高齢になってもその日のパンを稼ぐ老婆が死を迎えるまでの話(「オノリーヌ」)が続く。 

 それぞれが独立したエピソードである。もしかすると、綿密に研究すれば、何か統一性とか法則性とか相互の関連性とかいったものが見いだされるのかもしれないけれど、まあそういう研究は研究家に任せておいて、一話一話を楽しめたらそれでいいのだろう。田舎の農村に暮らす人たちの生活や人柄、風習などに共感できればそれで十分だ。 

 

 続いて「エロアの控え帳」。これは10の小品から成る。 

 これはエロアという文学者の手記という形をとる。といっても、一人称で書かれているものもあれば三人称で書かれているものもあったりする。 

 内容は、旅先での出来事、出会った人たち、自然の事物、風景などなどについてのエピソードが語られる。 

 「朗読」でエロアの脚本が詩人に認められる。 

 続く「ハシバミのうつろな実」ではエロアの人間嫌いが綴られる。人に対して辛辣に考えてしまうその思考がありのまま綴られる。 

 続く「エロア対エロア」では、彼は自分の矛盾を糾弾していく。二枚舌を使ったり、相手に応じて態度を変えたりする自分を自ら責め立てる。そこは自我が分裂しているようであり、自ら対話をしていくことになっているようだ。ただ、あまりにも厳しすぎるかもしれないし、ストイックすぎる感じもある。 

 最終話の「文学者」では、エロアが作品の中で借用した人たちから糾弾されることになる。彼らはエロアによって自分たちが暴露されたかのように感じている。それで彼を責め立てるのだが、エロアはそのすべてに対抗していく。その上で彼は自分が永遠の文学者であることを高らかに宣言する。農夫がぶどう畑でぶどう作りに励むように、自分は文学をやっていくことを宣言する。 

 

 本書の第三部である「ぶどう畑のぶどう作り」は、先のエロアのエピソードから、著者が作りたい文学作品ということになるだろうか。自分は文学者であると、自ら宣言した上での作品ということになる。 

 では、この作品はどういうものであるか。32の断片的小品から成る。 

 ここでは、彼が知り合った人、見かけた光景、その他、自然の風景並びに事物、動物や植物に至るまで、感受性の豊かな文学者の目に留まった事象のさまざまなスケッチが展開される。人も自然も動物も、時に愚かしくて滑稽であり、時にユーモラスであり、時に無慈悲で残酷であったりする。それを著者に見えたものをありのまま綴っているという印象を受ける。 

 中でも、思わず笑ってしまったのは、8話目「姉妹敵(きょうだいがたき)」だ。二人の女がコーヒーを飲んでいる。ひょんなことから胸の大きさを競うことになった。どうしても公正に測定できない。彼女たちはどうしたか。自分たちの持っているコーヒーカップを使って測定したのだ。カップに乳房を詰め込んで、マリーの方はカップに一杯で、アンリエットの方はカップからはみ出している。だからアンリエットの方が巨乳ということが判明する。しかし、そこまでして決着をつけたいというどこか浅はかさを僕は感じるのと、これは結局、アンリエットの肥満を暴露したことになり、どこか残酷さも感じられる。 

 そうして人々が描かれているが、12話目「雄鶏(おんどり)」からは動物たちへと視点が移る。後の作品になるほど、文章が短く、言葉数が減っていく。31話目の「蛇」など、本文は「ながすぎる」だけである。 

 でも、この「ながすぎる」という一語から、読者はさまざまなことをイメージすることだろう。確かにヘビは長すぎる奴がいると納得する人もあれば、そこにそのような体に生まれついたヘビの宿命を感じ取る人もあるかもしれない。言葉数が減っていくほど、読み手の側で多くを補っていくことになる。そうして、ルナールの文章を読むと同時に、読み手は自分の何かを読み取ってしまうことになる。つまり、自分の心的投影物と読者は出会っていくことになるというわけだ。 

 こうなると、エロアが自己と対話していったのと同じ経験を読者の方でもすることになる。いや、読者はそれを半強制的にさせられることになる。ここまで読んできて、読者の方も後戻りできなくなっているからだ。こうして、読者は一冊の本から自分に向き合わされることになるのだろう。 

 後になるほど内容が短くなっていき、言葉数も少なくなっていくのだから、終盤になるほど読みやすいはずだと思われるだろうけれど、僕は逆の経験をした。終盤の方こそ読むのがしんどくなってきた。著者は一体何を言いたいんだろうとあれこれ考えていると、僕はそこに自分自身の中にあるものを投げかけることになっていた。それで、こういうことなんだろうと自分で納得させながらも、自分を見せつけられるような体験をもした。そういうところに著者の意図があったとすれば、僕は賛辞を贈りたい。 

 加えて、イメージや比喩、象徴性に富み、それもまた心的投影を可能にする要因であったかもしれない。 

 

 さて、本書『ぶどう畑のぶどう作り』は『にんじん』と同じ年に出版されている。著者30歳のころの作品だ。『にんじん』は文学作品として成功を著者にもたらし、続く本書で著者は文学者で生きることの宣言をしたと評価できるかもしれない。そして、彼がどんな文学を目指すのか、その具体的例が本書第三部に当たるとみなしてもいいかもしれない。 

 もう一度、本書の三つの部分を振り返ろう。 

 第1部となる「村の便り」は著者の生まれ育った村の人々である。彼らを描くことは、同時に、著者のルーツに関わると言えるかもしれない。 

 第2部となる「エロアの控え帳」は、世界を幅広く探訪し、人々を観察し、自然と向き合い、そうして自我を拡張してきた著者が、ストイックなまでの自己対話を経て、周囲の圧力に屈せず、文学者で生きることを宣言したと言える内容だ。時に、人が自己を確立するためには周囲のすべてを敵に回してでもやってのければならないことがある、そういう場合もあるものだ。 

 そして、文学者の自覚を得た著者が書いたのが第3部「ぶどう畑のぶどう作り」ということになるだろうか。彼は彼にしか書けない文学を書こうとしているようだ。 

 

 さて、僕は本書を以上のように読んだ。僕の読み方が正しいとは思わない。おそらく、いろんな解釈を許してしまう作品だろうと思う。読み手の一人一人が読み解いていき、読み手の数だけ解釈が生まれてもいいのかもしれない。僕はそういうふうに読んだ。 

 もっとも、そういう読み方をせずとも、個々の小品を楽しめたらそれで十分かもしれない。 

 

 僕の唯我独断的読書評価は4つ星だ。思っていたよりも良かった。 

 

<テキスト> 

『ぶどう畑のぶどう作り』ジュール・ルナール著(1894年) 

 岸田国士訳 岩波文庫 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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