12月17日:ミステリバカにクスリなし~『女が見ていた』

12月17日(日):ミステリバカにクスリなし~『女が見ていた』 

 

 久々に横溝正史の小説を読もうと思った。ランダムに手に取って、本書に決める。実は未読の一冊だった。昔、買ったのはいいのだけれど、以後、どうも食指が動かされないでいて、現在に至っているというありさまだ。せっかく買った本だ、読もう。本も読まれなければもったいない。 

 

 本書をどうも読む気になれないというのは、どこか横溝正史らしくなさそうな印象を受けてしまうからだ。著者も述べているそうだが、異常な環境やグロテスクな描写などを極力排して、ごく日常的に起きる事件、日常的に接する人たちが登場するミステリ作品であるそうだ。 

 だから閉鎖的な村が舞台でもなく、旧家と新家との確執とかもなく、20年前の事件の因縁とかもなく、きわめて社会的というか都会的なミステリとなっているそうだ。 

 ともかく、紐解いてみよう。 

 

 作家の風間啓介はその夜、妻と喧嘩をしてむしゃくしゃした思いで銀座に出る。乗り物恐怖症であるにも関わらず満員電車に揺られて都会に出る。その時から、誰かに尾行されているという実感を彼は持つ。 

 一晩、ハシゴ酒をした啓介。その間に、何者かによって呼び出された妻がキャバレーで絞殺されたと知る。自分がその容疑者となることを恐れた啓介は友人の田代にかくまってもらうことにする。そして、自分のアリバイを証明してくれる女が三人いるはずであり、田代に女たちを見つけてくれるよう頼む。いや、それだけではない、彼を尾行していたもう一人の人物の存在もあった。 

 こういう設定はアイリッシュの『幻の女』から拝借しているものである。著者が都会的なミステリとしてお手本として選んだのがアイリッシュということになるのだろう。なんとなく正反対の作風をお手本としているところが面白い。 

 さて、こうして田代が友人のアリバイを立証してくれる女たちを探すこととなり、以後は田代を中心にして物語が展開する。 

 一方、啓介のところに居候している新聞記者の西沢も独自の調査を始める。彼は啓介が犯人と思っていたのだが、見知らぬ女から啓介が犯人ではないという手紙を受け取る。それでは何者かが啓介を殺人犯に陥れようとしていることになる。しかし、啓介の無実を証明してくれるその手紙も何者かによって盗まれてしまう。 

 このことは犯人にもまたその女たちの存在、犯人にとっては厄介な女たちの存在を知らせることになった。女を探す田代と西沢、それに真犯人。三者の視点が交錯しながら物語が進展していく。田代たちが一人目の女に接近できた矢先に、一歩先んじた犯人によって女が殺されてしまう。二人目の女もまた、先回りした犯人に殺されてしまう。常に犯人側が一歩リードしている状況がスリルを高める。 

 3人目の女と接触できた。彼女は啓介の無実を立証するために、犯人をおびき寄せる囮をかってでたのだが、田代や警察の監視の目をぬって、犯人は女を誘拐する。最後まで犯人の方が一歩先んじていて、田代と警察が後を追う形になるのが憎い演出だ。 

 

 以上が本作の骨子である。容疑者のアリバイを立証してくれる女を探すというのが主軸としてある。一歩リードしている犯人によって女が殺されていくというパターンだ。 

 全体として、謎解き要素よりも、スリルやサスペンスの要素が強い作品だ。追う側追われる側、尾行する側される側のかけひきが続く。いささか尾行ばかりという感もないわけではないけれど、多少のことは目をつむろう。 

 一人の男を三人の女がリレー式に尾行することになるが、その設定もあまり不自然に感じさせないのがよい。また、女がどうして啓介を尾行することになったのか、そこにもう一つの事件があるのだけれど、それも作中で解決される。 

 舞台は東京である。大都会である。昭和24年の作品なので、その時代の東京である。サンマータイム、パンパン、リンタクなど、執筆当時は現代だったのだろうけれど、令和の時代に読むと古色蒼然という思いだ。あの時代の世俗、風俗なども感じられる。リンタクなんてなんのことかいなと思った。これは自転車のタクシーということだ。自転車に荷台をつけ、そこに人を載せて引いていくというもので、客が乗ると幌みたいなのをかぶせるようだ。戦後は四輪自動車の数が制限されていたそうで、だからオート三輪なのが作られた(抜け穴的な発想だ)わけだけれど、タクシーも自転車だったのね。 

 

 サスペンス小説風の作品だけれど、犯人当ての要素がないわけではない。意外な人物が犯人であったりする。しかし、フェアかと訊かれたら、あまりフェアでもない。というのは、この犯人の動機があまりに漠然としているからである。啓介の妻を殺さなければならない必然性というものに弱いし、啓介を陥れる理由も乏しい感じがある。動機の側から推理を働かせることができないわけだ。 

 それでもそういう時代だったのだろう。戦前、戦中は重要人物であったのに、戦後になると無用な存在になってしまう。時代が大きく変わり、社会も価値観も激変したためだ。その中で生きていけなくなった人、落ちぶれた人なんかも実際に多かったのだろう。戦前の英雄は戦後では凡人以下になってしまい、当人にもどうすることもできなかったのだろう。この犯人の状況には共感できる思いがする。 

 

 本作は著者には珍しく都会を舞台にした作品であり、金田一耕助やその他のシリーズキャラクターの登場しないノンシリーズの一作だ。本格謎解きよりもサスペンスを主軸にした作品と言えるだろうか。それでも作者の作風が随所に感じられてファンには嬉しいところである。 

 新しい挑戦は作風だけではなく、本作が新聞連載小説であったところにも見られる。雑誌連載か書きおろしかで作品を発表してきた著者が新聞連載に挑戦したわけだ。毎日少量ずつ掲載して、最後まで読者を飽きさせないようにしなければならない。そのためか、本作は展開がとても速い。次々にいろんなことが起きるのも新聞連載という形態のためであろう。 

 

 横溝正史の全盛期は昭和20年代にある。数々の名作がこの時代に生み出されている。本作は昭和24年の作品なので、まさに全盛時代の一作ということになる。著者の脂がのっている時期の作品であるだけに、ハズレなしといったところだ。 

 僕は本作を面白く読んだ。名作、傑作の域には届かないかもしれないが、十分に楽しめるミステリ作品だ。ということで、僕の唯我独断的評価は4つ星といこう。 

 

<テキスト> 

『女が見ていた』横溝正史 角川文庫 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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