<#016-16>「カウンセリングなんて意味がない」 

 

<Q> 

 「カウンセリングなんて意味がない」「カウンセリングでは治らない」「カウンセリングなんて受けても何にもならない」等々。 

 

<状況と背景> 

 これは主にカウンセリングを誰かから勧められた時に発せられる応答であります。直接私に発せられるものではなく、しばしば私のクライアントがこれを受け取るのです。私のクライアントが、問題を持っているとみなされている家族員にカウンセリングを勧めたところ、「カウンセリングなんて意味がない、受けるだけ無駄だ」と返答され、それでどうしたらいいのか私に相談するなどであります。 

 

<A> 

 「そう思うのならご自由に」というのが私の回答であります。 

 カウンセリングなんて意味がないと本人がそうお考えになられるのは自由であり、私は個人の思考を変えようなどとは思いません。どのように考えようと本人の自由であり、その自由と権利を侵害するつもりはありません。 

 

<補足と説明> 

 「カウンセリングなんて意味がない」というのが果たしてその人の本心であるかどうかは不明であります。例えば、カウンセリングを勧めてくる人との間の関係性なども考慮して考えなければならないところでしょう。加えて、その時の状況とか、それを発した人の状態であるとか、その前後の文脈とか、トータル的に見る必要があるでしょう。 

 その辺りのことは分からないので、「カウンセリングなんて意味がない」という言葉を額面通りに受け取ることにします。その上でいくつか述べることにします。 

 

 まず、私の見解では、ある程度精神的に健康な人であれば、カウンセラーに相談してみてはとか、カウンセリングを受けてみてはなどと勧められても、極端に拒否することはないでしょう。せいぜい、考えてみるとか、なんとか自分でやってみるとか、行き詰ったらそうしてみるかなとか、そうした返答があることでしょう。 

 つまり、「カウンセリングなんて意味がない」と言うことは、一つの選択肢、あるいは一つの可能性を自ら閉ざしてしまっていることにならないか、ということなのであります。カウンセリングに意味があるかないか、それで治るか治らないかといったことは別としても、利用できる選択肢の一つであり、それは一つの可能性を含んでいるのであります。従って、これを発する人は自ら道を閉ざすようなことをしていることになるわけであります。そして、ある程度精神的に健康な人であれば、あまり極端に可能性や選択肢を制限することはないであろうと思われるからであります。 

 あるクライアントは、その人にとってカウンセリングがいい体験となっていたのでしょう、ひきこもり状態にある子供にも受けてほしいと願い、子供にカウンセリングを勧めてみたところ、このような反応が返ってきたのでした。クライアントを通じてその子供のことも私は聞いているのですが、この子供は彼の人生でそれを繰り返しているようでした。つまり、あれは意味がないとか、これはやっても仕方がないとか、そのようなことを言ってあらゆることを自分から切り捨ててきたのであります。その結果、どうなったかというと、彼は限られた可能性、わずかの選択肢の世界で生きているのであります。彼の問題がなんであれ、そうして彼には自己を縮小させてきた背景があり、カウンセリングに関してもその傾向を発揮したに過ぎないのであります。 

 

 ところで、カウンセリングを勧められて、そんなの意味がないと応答するとして、この応答を「自己主張」と混同してはいけないのであります。 

 つまり、「私は受けたくない」などとはっきりと自己主張しているわけではないのであります。「私は受けたくない」とか「私はいやだ」とか、そういった形で自己を主張しているのではなく、カウンセリングの方が意味がないという形で述べているのであり、むしろ自己を隠蔽している表現であります。言い換えれば非主体的な表現なのであります。 

 従って、この一文だけで決定されるわけではないけれど、その人がその他の場面でもそのような言い回しをしているということであれば、その人は主体性を喪失していると考えられるのであります。 

 

 主体性の喪失と関連するのですが、精神的に病んでいる人ほどカウンセリングを嫌悪したり激しく拒否したりする傾向が認められるのです。カウンセリングのような作業が脅威に感じられるからであります。 

 つまり、カウンセラーと対面すること(権威者と向き合ってしまうこと)、一対一で対峙すること(相手から注視されてしまうこと)、自分のことを話すこと(これは暴露されるなどと被害的に解釈されたり、話すことで自己が空虚になってしまうといった恐れがあったりする)、何かを言われること(それが自己に侵入的に体験されるとか、処罰を連想させるなど)、病的であればあるほど、そうした脅威を予期してしまうのであり、今の自分を守り、維持するために必死に抵抗しなければならなくなるわけであります。だからカウンセリングを受けてみてはという提案に対して極端に否定しなければならなくなるのだと思われるのです。 

 

 病的であるか否かを別としても、どうして意味がないと思うのか、発言者にも説明できないことが多いようであります。そこに明確な返答がもたらされることは、少なくとも私の経験内では、ありませんでした。これこれこういうわけだからカウンセリングには意味がないと私は考えるなど、そのように言える人を私はお見かけしたことがないのであります。 

 発言者なりの理由や思考があることはあるのだけれど、それが漠然としていたり、形を成していなかったりしているのかもしれません。どちらかと言えば「気分」に左右されているという印象を私は受けます。明確な思考が形成されていないので、気分の影響性が高まるのかもしれません。いずれにしても、その人の主観的気分によって、カウンセリングには意味がないと応じているだけなのかもしれません。 

 しかしながら、気分に支配されるということは、それだけ自我が機能できていないことが窺われるのです。つまり現実検討力の低下、自己意識の低下、思考の鈍麻などが生じているように思われるので、やはり病的な印象を払拭できないのであります。 

 あまり病的なところのものに関づけ過ぎてもいけないとは思うのですが、「カウンセリングなんて意味がない」といった発言は、もしその人に「病的」なところが多分にあるとすれば、その病理と深くかかわっているのかもしれない、そのように私は考えてしまうのであります。  

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

PAGE TOP