12年目コラム(14):動機論(1)

 これまで、「人を助けたい」という項目で述べてきたものは、すべて動機に関することである。ここで動機というものの価値とか意味ということに目を向けようと思う。
 僕たちは何かをする時、必ずそれをする動機というものを持っている。その動機が意識されていることもあれば、無意識であることもある。それでも、動機づけは行動の原動力として位置付けられるものである。
 それがどんな動機であれ、この動機は後々の行為に影響していくことになる。どんなふうにそれをするか、手段とか方法とかも、この動機によって影響される。行為の結果をどんなふうに評価するかということも、この動機に影響されることになる。
 もう一つ言えば、それ始めた動機は、それをやって行く中で衝突するトラブルや困難、ジレンマやスランプとも大いに関係しているものである。
 例えば、女の子にモテたいという動機でギターを始めた青年がいるとしよう。この人が後々体験する困難は、ギターが思うように上達しないということではなくて、ギターをやっても望むようにはモテないという部分で生じるだろう。ここで彼はこの動機自体を変えていくかもしれないし、他にモテそうな領域に方向転換するかもしれない。後者の場合では、新分野でも同種の困難に遭遇するかもしれない。前者の場合では、新しい動機は古い動機に基づいたものであるかもしれないし、古い動機の延長であるかもしれない。つまり、最初の動機というのは想像以上に後々まで影響していくものである。

 僕も最初の頃は「人を助けたい」とか「人の役に立ちたい」といった気持ちが、今よりももっとあった。しかし、こうした気持ちは、仕事をしていくうえで常に雑音となっていた。いつもこの気持ちに照らして自分を見ようとしてしまう。その上、クライアントにもこれを押し付ける。そういうこともあった。
 結局のところ、自分を振り返ってみれば、あまり「人を助けたい」とか、そういう動機でこれを始めたのではなかったということに思い至る。この仕事をしていくのだから、そういう意識を持っていないといけないと、そんなふうに考えるようになり、いつしかそれを自分の使命感とか動機にしてしまっていたように思う。
 最初にこの方面の勉強を始めたのは、すべて自分自身を知るためだった。これが根本の動機だったように思う。以来、僕は自分自身を知るために自分の仕事をするということを、かなり意識するようになったし、そのことを隠そうとしなくなった。この「自分自身を知る」ということについては、いずれ取り上げようと思う。

 ところで、僕は一方で、こんなふうにも考える。結局、ある人がどういう動機で何を始めようと構わないのだ。不純な動機で始めてもいいのである。だから、極端な話、「座って話し合いをしているだけで儲けられるから」という動機でカウンセラーになっても構わないのである。肝心な点は、動機がどんなものであれ、そこから何を目指すようになるかということの方がはるかに重要であるということだ。
 つまり、一言で言えば、動機よりも目標である。しかしながら、この目標もまた最初の動機と無関係ではないのだ。しばしば、最初の動機がそのまま目標になることだってある。「人を助けたい」という動機は、そのまま「人を助ける」という目標になる。しかし、同じくらい、最初の動機と目指す目標とが異なる場合もある。いずれにしても、動機と目標はセットである。
 従って、それを始めることになった動機というものは、意識しておくとよいという結論になる。もちろん、嘘偽りのない正直な動機ということである。

 就職試験の面接なんかでも、「どうしてこの会社を選びましたか」などと、志望動機を訊かれることがある。そんな場面でも、立派な動機を答えなくてもいいのである。正直に言えばいいと僕は考えている。当然のことながら、その言い回しには工夫がいる。あまり面接官たちへの印象を悪くしたり、不快にさせないようにという配慮も必要である。
 そして、その動機について、更に訊かれることもある。例えば「それは本心ですか」と訊かれたら、「はい、私の本心です」と答えればよい。その上で、「私のこの動機は、私が今後この会社で仕事をしていく上で経験する困難と必ず関係してくるでしょう。その時、周囲の同僚や上司に本心の動機を知っていてもらっていることで、どれほど私自身が心強く思えることだろうかと、そう思うからです」と言ってもよい。その方が、下手に取り繕って、嘘を言うよりも、よっぽど好ましいように僕には思われるのだ。

 ここまで述べたことを踏まえて、僕の持論を述べよう。
 人が何かをする時には、必ずそれをする動機がある。「何となく始めてみた」という場合でも、その「何となく」が動機であるし、それは動機が意識化されていないだけのことである。どんな行為であれ、必ずそれをすることになった動機がある。
 意識化できるためには、自分の内面や内側で生じていることに関して開かれている必要がある。そうでなければ、偽りの動機を作り出すようになり、その偽りの動機で行為するようになる。「人を殺してみたかった」は最初の動機ではないはずである。最初の動機に無自覚なので、後から生まれた動機に目を奪われてしまうのだと思う。
 最初の動機は、その後の困難や目標と関わる。困難に陥った時、外的な状況に目を向けるよりも、内的な部分、つまり最初の動機の部分に目を向ける方が有益であることも少なくない。
 これが僕の考える「動機論」の根幹となる部分である。現実には、一つの行為に二つ以上の動機が働いていることもあったり、逆に一つの動機から異なった二つの行為を行う場合もあり、複雑である。その場合でも、できるだけ最初の動機に近づくことが重要になると僕は考える。つまり、「人を助けたい」という動機は、「人を助けたい」と思うようになった根本に迫るべきなのである。

文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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